息子が突然相撲に興味を持ち始めたので、今年に入ってから大相撲をテレビで観戦するようになった。あんなにじっくりと本場所を観たのは、親の私も生まれて初めてだった。最初は仕切りも立合いも何が何だかさっぱりだったが、場所が進むにつれてそれぞれの行動の意味も分かるようになってきた。ちんぷんかんぷんだった力士の名前と顔も一致するようになり、次第に応援にも力が入るようになった。色とりどりの廻しを身につけた巨大な力士たちが、「ゴンッ!」と激しい音をたてて体当たりする様は圧巻だ。しかし、そんな彼らの猛々しい取組みと同じくらい、気になって仕方ないのが客席である。
土俵に最も近い座布団席のことを溜席(たまりせき)という。中でもテレビカメラに映る頻度が高いのが向正面側なのだが、その端の一席に連日座っているひとりの女性の存在に気づいた。初場所開催中、その女性は一日も欠かすことなく、いつも同じ席にしゃんと座っていた。本当にいつ見ても背筋がピンと伸びていて、拍手をするとき以外は微動だにしない。異様なまでに完璧な姿勢なのである。毎日淡い色の上品なワンピースにラグジュアリーなバッグという出で立ちで、その凜とした姿が、恰幅のいい猛者たちの登場によって図らずも引き立てられていた。
いつの間にか、溜席に座る美女を見るのが大相撲観戦の楽しみのひとつになっていた。マスクで表情が読み取れないことが、いっそう謎めいた美しさを醸し出していた。あの人はいったい何者なんだろう? だんだんそればかりが気になって、「大相撲 溜席 女性」というつかみどころのないキーワードで検索してみると、彼女の素性をあれこれと憶測する記事やブログが数多くヒットした。SNSでも話題になっており、「溜席の妖精」や「背筋ピン子さん」などという呼び名で予想以上に盛り上がっていた。あの儚げな容姿を「妖精」と呼びたくなる気持ちはよくわかる。ネット民のネーミングセンスにはつくづく脱帽する。
そんなこんなで1月の初場所が千秋楽を迎えるまで、私の頭の片隅にはいつも「溜席の妖精」がいた。どこの誰かも全く知らないが、15日間毎日画面越しに見続けていると親近感すら覚え、ついには彼女に似合いそうなジュエリーまで見つけてしまった。NYを拠点に活躍するデザイナー、テッド・ミューリングのオープンバングルだ。イエローゴールドのなめらかな曲線は先へいくほど細くなり、優美な楕円を描く。その両端にあしらわれたのは、ぷっくりと艶めく2粒のピンクパール。ほのかに血色が宿った頬のような優しい色合いが、かえって透明感を演出し、純白のパールとはひと味違った気品と色気を漂わせる。14Kゴールドの落ち着いた色味も相まって、マチュアな魅力を備えている。このバングルをひと目見た瞬間、バチッと回路がつながったように、溜席の女性の清楚なワンピース姿が脳裏にはっきりと浮かんだのだった。
ほんのり色づく桃色パールの輝きを自分の手元に添えて、春を先取りするのも妙案だろう。好きなお菓子をちびちびとつまむように。お気に入りの短編集をじっくりと読み進めていくように。重々しい冬の装いに、少しずつ春色を取り入れていくのだ。ジュエリーはいつだって、私たちの心にうららかな追い風を吹かせてくれる。
千秋楽の日、もう今日であの妖精も見納めかと思うと名残惜しかった。春場所でまたあの端正な姿を見られるのだろうか。いつか画面を通してではなく、直接お目にかかってみたいものだ。「明日、春が来たら、君に逢いに行こう」。ふと、松たか子さんの昔の歌のフレーズを思い出した。誰にでも、必ず春は訪れる。ピンクパールのバングルが、その微かな足音を運んでくれるような気がした。
illustration:Uca text:Eimi Hayashi