おやつをめぐる記憶にまつわる、エッセイ連載
お菓子は甘い総合芸術。味に意匠に文化に歴史。だからこそ、たったひとかけらのお菓子は、時空を巻き戻すことすらできるのだ。昔の味も未来の味も、自由自在の時間旅行記。
トップショコラトリーの新作だとか、ビーントゥバーの板チョコだとか、街に出れば今の空気をまとったおいしいチョコレートにいくらだって出合えるのに、どうしてだろう、どこか怪しげで古めかしいロシアチョコレートに指先が伸びてしまうのは。
ローザー洋菓子店。その名が刷られたパールホワイトの缶。金色のテープをピーッとはがして蓋を開けば、うわっとカラフルな包み紙がこみあげる。ひとつひとつ絵柄の違うそれらは、ピンク色のトラが目を輝かせ、南パイナップルがよく熟れて、色白のご婦人はちょうどお化粧を整えたばかりの様子。これがアニメーションの世界なら、彼らはきっと蓋を開けるまで変なお茶会でもしていたのだろうというにぎやかさで、こちらは眺めるだけでも正気を失いそう。それなのに、ぎりぎりのところで正しく箱に収まっているのだから、こういうことを人は上品と呼ぶのだろう。包み紙には読めないロシア語があしらわれ、秘密めいた空気は一層濃厚に。チョコレートの放つ甘白い香りと伴って、遠近感がまるでつかめなくなる。デザインは今から60年以上も前、創業当時にオーナーの親戚の絵描きさんが、遠く彼方のソビエト文化を夢想しながら描いたものだそう。世界は今よりずっと広くて、高級チョコレートは大変な珍しさで、そんな時代に田園調布で開業したローザー洋菓子店は、きっと多くの人のあこがれを背負ったはず。その味は今でもまぶしい。あの頃が、その味や空気が、砂糖やミルクに溶け込んでいる気がして、一口かじるたびにそっと気持ちがはりつめる。それは知らない世界の入り口のようで、何度味わっても自分のものにはならなくて、だからこそローザーのチョコレートは、いつまでも褪せることのない、あこがれ、そのものなんだろう。
ローザー洋菓子店
●東京都大田区田園調布2の48の13
☎03-3721-2662 営業時間10時~18時
㊡日・祝日
※「ロシアチョコレート」(缶入り、税込み¥3,500~)は11種類のフレーバーが詰められている。袋での販売もあり
PROFILE
ひらの さきこ●1991年生まれのフードエッセイスト。雑誌連載のほか、お菓子やイベントのプロデュースも手がける。著書に『生まれた時からアルデンテ』(平凡社)があり。日頃の食生活はInstagram:@sakikohirano にて。
SOURCE:SPUR 2018年7月号「スイーツタイムトラベル」
photography:Masaya Takagi styling:Keiko Hudson