おやつをめぐる記憶にまつわる、エッセイ連載
お菓子は甘い総合芸術。味に意匠に文化に歴史。だからこそ、たったの一口で時空を巻き戻すことすらできるのだ。昔の味も未来の味も、自由自在の時間旅行記。
バラの香りといえば。化粧品、香水。それは母の鏡台や銀座ですれ違うマダムの揺れる髪から香るものであり、食欲とは随分かけ離れた存在だった。だから初めてピエール・エルメ・パリのイスパハンに出合ったとき、そのビビッドピンクの姿態にはらりとバラの花弁がのっているのを見て、なんという無謀……!と後ずさったのを覚えている。それでも好奇心を動力におそるおそる口に運べば、まあなんてことだろう。苦手なはずのバラの香気は、まったくもってファンタスティックな味覚へ昇華されていたのだ。バラが、化けた。まるでたぬきが枯葉をのせたかのように(言いたいだけ)。
バラのマカロンとクリームに寄り添うのはライチとフランボワーズ。バラのロマンティックに、フランボワーズの甘酸っぱさとライチの妖艶さがじゃれ合う。それらはまるで衝撃的な組み合わせながら味わいも香りも重層的につながり、口の中に味の新世界を生む。その風景は完璧を思うほど美しかった。「このコンビネーション……天才としか言いようがない」。パティシエの友達が白目をむいていたのを覚えている。
ピエール・エルメ氏が日本に登場したのは1997年。建築物のように緻密に味覚を構築し、パリコレのようにシーズンごとの新作を発表。パティシエを芸術家の域に進化させるかのごとく業界の常識を塗り替えてきた。今や街にあふれるマカロンも、彼が光を当てるまで伝統のほこりをかぶった古ぼけたお菓子だったという。モダンでポップな現代菓子へとマカロン革命を起こしたエルメ氏にとって、イスパハンは大切なシグネチャースイーツ。それはもはや、舌で味わうことのできるアートピースであり、菓子の歴史に刻まれるべき名品なのだ。
ピエール・エルメ・パリ 青山
●東京都渋谷区神宮前5の51の8 ラ・ポルト青山1・2F
☎03-5485-7766
営業時間 11時~20時 不定休
イスパハン「アンディヴィ」(写真・1人用)は¥900
PROFILE
ひらの さきこ●1991年、福岡県生まれのフードエッセイスト。お菓子のプロデュースなども手がける。instagram:@sakikohirano
SOURCE:SPUR 2019年5月号「スイーツタイムトラベル」
photography:Masaya Takagi styling:Keiko Hudson