乳がんになった体験をつづったノンフィクション『くもをさがす』が話題となった作家・西加奈子さん。障害を通して人間の体の在り方を研究する美学者・伊藤亜紗さん。同世代の二人が考える生きづらさの正体とは
1977年、イラン・テヘラン生まれ。エジプト、大阪で育つ。2015年、『サラバ!』で直木賞を受賞。2019年12月から2年間、語学留学のため家族でカナダ・バンクーバーに転居。著書に『さくら』『夜が明ける』『くもをさがす』など。
1979年、東京都生まれ。2020年2月より東京工業大学科学技術創成研究院 「未来の人類研究センター」センター長。専門は美学、現代アート。著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』『どもる体』『記憶する体』など。
乳がんになって、初めて体の声に耳を傾けるようになった
伊藤 西さんの新刊小説『わたしに会いたい』、拝読しました。前作の『くもをさがす』は、西さんがカナダに留学中に乳がんになった体験が綴られたノンフィクションですが、今回の短編集も女性と体がテーマですね。とても興味深く拝読しました。
西 ありがとうございます。私の中のあるあるなんですけれど、短編になると、テーマがほぼ女性の体のこと、自分の手で触れられることについて書くことが多いんです。特にこの短編集は、執筆中に自分が乳がんになり、体のことをめちゃくちゃ考える機会があったということが、全面に出た感じです。
伊藤 長編と短編とでは、書くときのモードが全然違うということですね。
西 よく言うのは、長編は主人公との距離感が必要になるとか、短編は、自分と近くても走りきれるだろうみたいな感覚があると。でも実際のところはわからないんですけど。
伊藤 ニ作に共通して感じたのは、西さんと病気との距離感です。一般的には、病は闘うべき〝敵〟というメタファーで語られるものなので守るべきものの外側に置くという発想になります。でも、西さんはそうはならなかった。本の中にも「闘病という言い方はしたくない」と書いていらっしゃいます。
西 そうですね。私の場合、経験はつらかったのですが、乳がんそのものに対しては愛おしさがあったんです。さわるとゴリッとしていて、明らかにそこに存在している。そうすると「よう、こんな固なって」「健気やな」と愛情が湧いてきて。伊藤さんの著書で、障がいのある方々にインタビューした『記憶する体』に、幻肢の話がいくつか出てきますよね。失った手足があるかのように感じることで、痛みがあったり、幻肢の大きさがまちまちだったり、その症状もさまざまで驚かされたんですけれど、その中に病気で切断した右腕に意志を認めている方がいましたよね。
伊藤 倉澤奈津子さんですね。彼女は幻肢痛の表現が独特で、「腫れようとしている」「腫れたい」などと擬人化して、痛みを幻視の主張として受け取っていましたね。
西 そう、その感じがすごくよくわかりました。私もよく風呂で患部をなでながら話しかけてたんです。「教えてくれてありがとう」「でも、ごめん。一緒にはいられへんねん」って。スピリチュアルになるギリギリのところで、文字にするとちょっと怖いんですけれど(笑)、約8カ月の治療期間、人生で一番自分の体を慈しみました。本当はもっと前からそうしていればよかったんです。でも、作家になってから、体ではなくて、頭脳が自分を支配している感覚が強かったので、よく熱を出してぶっ倒れたりしてたのに、体のことは全然考えてなかった。病気になって体の声にやっと耳を傾けるようになりました。
伊藤 本の中に「この体は私のもの」「私の体を取り戻す」というような言葉が出てきて、そこだけ取り出すと、自分が〝領主〟で、体はその支配下にあるイメージにも聞こえる。だけど、お話を伺っていると、むしろ思い通りにならず、コントロールのきかないもの、というところを含めた「私の体」だとわかって、面白いと思いました。
実は今、摂食障害の方々の話を聞く連載をウェブでしているんですけれど、彼らの多くが「体をコントロールしたい」という気持ちが強くて、それが行きすぎた結果、摂食障害に陥っているんですね。では、なぜそういう思いに駆られるかというと、たとえばある方は、日常があまりに混沌としていたり、思い通りにならないことが多すぎる中で、唯一自分がコントロールできるのが「体重」だと。
西 なるほど。
伊藤 「食事を何キロカロリーに抑えれば、体重が何㎏落ちる」と、体は割と計画通りに反応してくれるので、どんどんハマっちゃうんですね。でも、それをやっているうちに、次第に体の声がまったく聞けなくなって、食べ物の味もわからなくなってくる。体がただの物体になってしまうんです。それをどう取り戻していくかというのが、摂食障害の方の共通した問いなんですが、西さんの「思い通りにならない部分も含めて、私の体なんだ」という考えが解決のヒントになりそうです。
「自分を肯定しなければ」という呪いが結局、体を裏切っていく
西 お話にあったように、今は誰にとっても生きづらい世の中ですよね。特に日本で女性として生きていると、自分が本当にしたいこと、自分の体が本当に望んでいることより、「あなたはこれを好きでいるべき」と、周囲に手綱を握られがちだなと思っていて。
乳がんの治療が終わったあと、海岸沿いをランニングしていたら、レトリバー犬が浜辺で遊んでいたんですよ。ザバザバ~ッと海に飛び込んで木を取ってきたり、ブルブルブル~ッて水を振り払ったりして、めっちゃ楽しそうやんって。一方、「なんでうちは、あの犬みたいに海に入ったりせえへんのやろ?」と思ったんです。それは、大人になったら、冬の海に服を着たまま入るのはヤバいヤツだと思ってたというか、思わされていたからで。でも、考えてみたら「自由やん」と思って、海に入って、思いっきりビシャビシャやってみたんです。犬が引くくらいに(笑)。そしたらめちゃくちゃ楽しくて。
そのときに気づいたんです。私の体、私の心が欲していることは、私が一番よく知っているはずだから、自分の手綱は自分で引っ張らないとあかんなと。「女性で、この年齢なら、こうするべきですよ」って、なんや得体の知れない何かに手綱を握られていたのをあのとき、「リードごとよこせ!」って奪い取った感覚でしたね。
伊藤 そのままの自分でいられるのは、幸せなことですよね。ストレスからも解放されると思います。ただ、自然な自分でいることは結構難しくて、中には、「そのままの自分を肯定しなくちゃ」という呪いに陥る人もいます。
たとえば障がい者に関する研究を見ると、1970年代は、障がいを肯定しようと頑張った時代でした。「この体は悪くなくて、社会が変わってくれたら、普通に生きられる」と。それで環境を整備して、バリアフリー化も一気に進みました。それはすごく重要で、そういう時代があったからこそ、今、障がい者の方々は生活がしやすくなったのですが、その一方、当事者は結構苦しかったという声もあるんですね。当時、私のように吃音がある人たちが何をやっていたかというと、電車の中で、大声で言葉を詰まらせながらしゃべるみたいなことをしていたんです。
西 自分の障がいを肯定しているから、オープンに振る舞おうと。
伊藤 はい。「吃音を持ちながら生きていくんだ」という宣言をしなくちゃならない。実際、『吃音者宣言』という本も出ましたし、体ごとさらけ出すことで肯定しようとしていたんです。
西 それは苦しいですね。健常者には求められないことですもんね。
伊藤 そうなんです。そうすると、何が起こるかというと、どんどん演技が始まるんです。自分を肯定することがミッションなんだということの道具に体がなってしまって、結局、体を否定していくことになるんですよね。
西 うーむ。すごい反転が起きるわけですね。しかも一見、ポジティブだから複雑ですよね。でも、難しいのは、人は社会的な影響下からは絶対逃れられないことですよね。矛盾しているようですが、私も自分の心の声だと思っていることを100%そうだと信じ切れないところがあります。
2020年に「ブラック・ライブズ・マター」のムーブメントがあったとき、いろんな人のSNSを見て、感動したり、怒ったりしていたんですけれど、そのうち、あたかも「最初からそう思っていた」かのように、自分が考えていることに気づいたんですね。もし人の意見を目にしていなかったら、紆余曲折あって、もちろん間違えることもあり、それでも最後に自分なりの考えにたどり着いたはずなのに、最初からワンストロークで正しさにたどり着いたみたいになっている自分が怖いなと思って。とにかくSNSから離れてニュースをコメント欄なしで見て、間違ってもいいから、自分で考えるっていう練習をすごくしました。
伊藤 確かに「自分が本当はどう思っているか」を探るのは難しいですよね。私は大学で芸術を教えているんですけれど、学生に1枚の絵を見せて感想を聞くと、みんな、解釈の正解を探そうとするんです。
西 めっちゃわかる~!(笑)
伊藤 「これを言ったらバカだと思われる」とか考えて武装しているので、まずはその武装を解除するところから始まります。授業2回目くらいで、やっとほぐれてきて、自分で検閲しない言葉が出てくるんですよね。
西 頭の中の編集者10人くらいが会議してから発言してたのが、自分の感覚でものが言えるようになる、ということですね?
伊藤 そうですね。だから「自分で感じる」って、訓練が必要なんですけれど、一回できるようになると、生きていく上で大きな力になる。「この会社、おかしいぞ」「この社会、へんだぞ」と気づけないまま、順応しちゃう人も結構いますから、自分で感じる力を身につけることは大事だなと思いますね。
自然が人の癒やしになるのは、自然が自分に無関心だから
西 今日、伊藤さんにぜひお伺いしたいと思っていたことがあるんです。作家として言葉を生業にしていると、だんだんそれらしい答えを言葉で言えるようになって、それが逆にもどかしいときがあるんですね。たとえば10代の頃にトニ・モリスンという作家に出会って、ものすごく衝撃を受けたんですけれど、当時の自分は、その衝撃を語る語彙を持ってなかったんです。その後、作家になってから、『人生を変えた1冊』みたいなのを必ず聞かれて、何度もトニ・モリスンの話をしていたら、だんだんうまく説明できるようになってきたんですよ。彼女のどこがすごくて、何に感銘を受けたか
――トニ・モリスン漫談みたいにしゃべれるんです(笑)。
でも、その帰り道、いつもしんどくて。うまいこと言ったけど、当時の自分がめっちゃこっちを見ていて、「あれは私のストーリーだったのに、なんでおまえのストーリーにすんねん!」って言われてる気がして。伊藤さんも言葉で伝える仕事をする中で、「いや、こんなんちゃうねん」って思うときがあるのかなと思って。
伊藤 めちゃくちゃありますし、この話を人としたことがないので、今すごく感動してます。経験って、言語化することでパッケージ化されて、人に渡せるものになるし、自分自身もそれを受け取っちゃうんですよね。そうすると、あたかもその経験が言葉を中心に整理されてしまうことがあって、自分自身をだましているというか、常に「言いすぎちゃったな」みたいな感覚はありますね。
西 ああ、そうなんですね。
伊藤 とはいえ、現実は、そんな私の罪悪感を超えていくだろうという信頼もあって。もちろん言葉によって記憶が美化されたり、簡単にわかったことになってしまうんですけれど、自分が生きている現実は豊かで、言葉なんかに負けないですよね。体はちゃんと言葉を裏切ってくれるので。
西 素敵。伊藤さんの著書『体はゆく』にもありましたね。言葉より、体が先に行くと。
伊藤 はい。言葉で「こうじゃないか」って思っていても、それは常に仮説でしかなくて、体が「いや、違うし」みたいに絶対言ってくれるんですね。だから、「言いすぎたかな」という罪悪感を持ちつつも、そのループの外側がちゃんとあるんだという安心感が同時に持てるのが体の研究のいいところかなと感じます。
西 伊藤さんの著書を読んで、障がいのある方の体への向き合い方を知ると、体も人間も、私が思っているよりもっと強いんだ、と思うことができます。
伊藤 これは西さんの本にも書いてあって、素晴らしいなと思ったことですけれど、大病を患ったり、大きな怪我をした方は、「なぜこの病気になったのだろう」「あのとき、検診に行っていれば」と過去にさかのぼって理由を探してしまうけれど、結局、理由はないと。それを知っているのが、彼らの強さだと思います。イギリスの小説家、ヴァージニア・ウルフも『病気になるということ』の中で、同じようなことを書いていたと思います。彼女がスペイン風邪にかかったときの話で、なぜ自然が慰めになるかというと、自然が自分に無関心だからだと言うんですね。
西 普通は、困った人がいたら助けてあげたりするのが親切といわれていますけど、逆なんですね。
伊藤 はい。ヴァージニア・ウルフは、直立人(健康な人)と横臥者(病で横になっている者)とでは見える世界が違うと言います。たとえば横になることで空の見え方が全然変わってくる。雲が形を変えたり、さまざまな自然現象を引き起こしたりということをもう何億年も前からずっとやっているということに、病気の人だけが気づくと言うんです。そしてそんな自然が、自分には無関心であることが救いになると。
もちろん困っている人に寄り添ったり、傾聴することは大事だけれど、それだけでは救い切れない部分があって、まったく違う発想が必要になってくる。因果関係の外に出るっていうことですかね。西さんしかり、そういうことを知っている人の強さには圧倒されます。
西 なるほど。ただそう考えると自然や体の存在に比べて、やっぱり言葉って、めっちゃもどかしいなぁと思ったりも。
伊藤 でも、言葉じゃないと、見つけられないものもありますよね。特に混乱の中にあるときは、言葉が手がかりになるというか。病気で苦しんでいる方なんかは、やっぱりすごく言葉を必要とされるわけです。だから言葉は、複雑すぎて、つかめない現実の「取っ手」みたいなものになってくれているんだと思います。特に小説は、私の研究のように一般化する必要がないので、ものの価値を個別的に残すことができる。ほかの文化が滅びても小説だけは、残してほしいと思います。
西 ありがとうございます。心強いです。今は、価値観が大きく変わりつつある過渡期で、もはや正解のない時代ですよね。自分でも頭の中がぐちゃぐちゃになって、立ち止まってしまうときもあるんですけれど、この面倒くささは、これからも絶対に引き受けていかないと、と思っています。
読者からのお悩み相談 "私が感じる体の生きづらさに助言をください!"
Q. 毎月の生理や天候の変化による片頭痛など、自分のコントロール外のところで体に不調が起きるのが腹立たしい。上手くつき合っていくしかないとは思いますが、どう対処したらいいでしょうか。
A. 体調が悪いときに休めない社会が問題。時間の捉え方を変えて余裕を持つ
西「この人は責任感の強い方なんでしょうね。でも、本当はしんどいと思ったら、横になって、そのしんどさを解体していく時間が必要なんだと思います。私が病気になったときは、仕事をしなくてもよかったし、周囲の人が助けてくれて、病に集中できた。それはすごくラッキーでした。彼女は『なんで言うこと聞けへんの』って、自分の体に苛立っているけれど、悪いのは体ではなくつらいときに休めないシステムなんだと思います」
伊藤「レビー小体型認知症の方の話ですが、病気になる前は、『何日までにこれをやらなくちゃいけないから、今日はこれをやっておこう』と引き算の時間を常に生きていたと。それが病気になったら、『今日できることをやって、次はまたできるときに少しやって』と足し算になったそうです。相談者の方も時間に追われて余裕がなくなっていると思います。足し算で考えられるようになるとラクになるかもしれないですね」
Q.私は自分の体の見た目に納得がいったことがなく、自信を抱けません。自分で自分を受け入れてあげるにはどうしたらいいでしょう。マインドの切り替え方を教えてほしいです。
A.自分では気づかなかった美しさを他者が見出してくれることも
伊藤 「人の受け取る力をもっと信じていいんじゃないでしょうか。たとえば私が本を書いたとき、予想通りの反応もあれば、すごく意外な反応もあって、『あ、この本には、そんな可能性もあったんだ。それは気づかなかった』と感じることがあるんです。本人が考えていることを超えたポテンシャルを引き出してくれる人が必ずいるんですね。
見た目に関しても同様で、美しいという規範が社会にあったとしても、たぶんそれ以外のところをみんなこっそり見ているんですよ。そして本人が頑張ってプロデュースしているものじゃないところに意外な魅力を発見してくれたりします。ある意味、誤解も含まれているんだけれど、その人の人生とか経験とか好みによって、『なんでそこ?』っていうところにフォーカスして、自分では気づかなかった美しさを見つけ出してくれる人がいるんですね。この相談者の方は、社会的な認識に縛られているようですけれど、世間には多様な考えを持った人がいる。いろんな人の受け止める力を信じれば、案外ラクになれるかもしれません」
Q.最近、世間でも周囲の同世代の女性たちの間でも卵子凍結が話題です。ハードルが下がるにつれて、卵子凍結を考える人が増えそうですし、自分も「したほうがいいのかな?」という気になってきました。タイムリミットを気にしなくていいことや、産む産まないの選択が自由になることは、女性にとって大きなプラスですが、一方で、「卵子凍結しておくのがスタンダード」みたいな流れになるのは怖いな、とも感じています。
A.自分の本心に従った上で技術を利用する。やらなくては、という強迫観念にとらわれないように
西「私は体外受精も顕微授精も何回もやりましたが、一番しんどかったのは、終わりがなかったことです。まだいける、あの人は50歳で産んでんぞ! みたいなのが、すごくしんどかった。技術って素晴らしいし、私たちをハッピーにもしてくれるけれど、その反面、不自由にもさせる。可能ならやらなければならないという強迫観念にかられる場合がありますよね。
この先、自分の人生がどうなるかわからないとき、卵子凍結という選択肢を増やしたい気持ちはよくわかります。でも、そもそも自分は本当に子どもが欲しいのか――というところを抜きにして語られていいのだろうかと思ったり。難しい問題だけど、技術を利用する前に、より自分と深く向き合うことが必要かもしれないですね」
Q.「可愛く見られたい」「男の子にモテたい」と人の目を気にして振る舞うのは、かっこ悪いとわかっているのですが、気がつくと「愛される女の子」を演じています。そんな自分が好きになれません。
A.主体性を持ってやっているのであればアリ。欲張って可愛いもかっこいいも持っている人に
西 「『可愛く見せなあかん』と思わされていたらダメだけど、『可愛く見せたい』と主体性があるなら、問題ないのでは? 私もいつも同じ自分ではないですし。要は、そこに選択肢があるか。自分でそれをチョイスできているかではないでしょうか」
伊藤「野球が好きで横浜DeNAベイスターズファンなんですけれど、試合のイニング中にチームのチアガールとお客さん代表がリレー対決をするイベントがあるんです。これが女性たちがめっちゃ早くて、ぶっちぎりで勝つ(笑)。ミニスカートで、お客さんに笑顔を振りまく存在でありながら、容赦なく勝ちに行くのが気持ちよくて。愛されるとかっこよさは共存できると思いますよ」
『わたしに会いたい』
ある日、ドッペルゲンガーの「わたし」がわたしに会いに来る表題作をはじめ、24歳の私と陰毛脱毛のリアルを描いた「VIO」、乳がんのためGカップの乳房を全摘出することになったグラビアアイドルの物語「あらわ」など全8編を収録。「わたし」の体を通して、今を生きる女性たちの生きづらさを見つめる珠玉の短編小説集。