海女さんの文化と未来。伝統を受け継ぎ、自然と生きる

女性が身ひとつで海に潜る海女漁。歴史上、日本各地と韓国独自の文化だということを、知っていた? 海女さんの生活には、自然とともに生きる知恵があった

女性が身ひとつで海に潜る海女漁。歴史上、日本各地と韓国独自の文化だということを、知っていた? 海女さんの生活には、自然とともに生きる知恵があった

海女漁を追いかけて

日本有数の規模を誇る、三重県鳥羽市相差(おうさつ)町の海女漁。7月のある日、漁の様子を見せてもらった

海女の文化が息づく町で、潜りながら生きる女性たちに出会う

三重県鳥羽市相差町 海女漁

朝から暑さの厳しい7月中旬の午前8時、三重県鳥羽市相差町の漁港には、ウェットスーツを着込んだ海女たちが、スクーターや軽トラに乗って三々五々と集まってくる。明るい声で挨拶を交わしつつ、漁の道具を船に積み込む。その表情には、どこかピリッとしたムードが漂っている。

女性が身ひとつで海に潜り、海産物を採取する海女漁。日本各地に今も残るこの伝統的な素潜り漁は、古代から行われてきたもので、万葉集にもその名が残っている。現在、全国に1200人ほどいる海女のうち、半数近くが三重県の志摩半島で活動している。中でもここ相差町は、全国で最大の規模を誇る、海女文化の根づく町だ。

9時前になると、準備のできた船から沖合に向けて出港。5〜6名の海女を乗せた船もあれば、夫婦ふたりで行く船も。潜る時間は規定により1日1時間半まで。その間、海女たちは海底と海面を何度も往復する。1回の潜水で50秒間、10メートルもの深さまで潜る海女もいる。

定められた1時間半が過ぎて、船はまた漁港に帰ってくる。「大漁かい?」「大漁、大漁!」と会話する声が港に響く。この地の特産物であるアワビは高値で取り引きされ、1回の漁で、夫婦ふたりで15〜16万円の稼ぎを上げることも。

「お金が振り込まれると、頑張ったなあ!と思う。これが何よりの楽しみやねん」と話すのは、ベテラン海女の松井澄子さん。海女歴7年の中田文美さんは、「今日はイマイチやったかな」と笑う。たくさん採る日もあれば、体調を見てほんの数個で切り上げる日もある。海女たちはそんな日を、「アワビをとらずに命を取った日」と表現する。「そういう日もある、自然相手やからね」。無理はしない、これが海女の何より大切な約束事だ。

三重県鳥羽市相差町 海女漁

1 「昔は白い木綿の磯着を着て潜っとったよ。今はウェットスーツがあるからラクやね」とベテラン海女の松井澄子さん
2 漁に使う道具。右端は、浮力のあるウェットスーツを着て潜るためのベルトで、6〜7㎏の重りがついている
3 採った獲物は、手作りのカゴに入れて市場に運ぶ

三重県鳥羽市相差町 海女漁

4 相差の最高齢海女、83歳の浅野さん(左)と72歳の上村さん(右)
5 7月の黒ウニ(ムラサキウニ)は身が痩せており、海藻を食べてしまう食害のもとになるので、出荷はせずに駆除する
6 海女たちが乗り合わせる船。一隻の船に3〜4人の海女が乗って沖を目指す

三重県鳥羽市相差町 海女漁

7 1個200gほどのアワビは、1㎏で1万5〜6千円の値をつける 
8 採取したアワビの計測を待つ海女たち

鳥羽市相差町、ふたりの海女の声を聞く

現在、後継者不足と環境問題に直面している海女文化。40代と70代、海女として働くふたりの女性に話を聞いた

松井澄子さん 中田文美さん
中田文美さんプロフィール画像
Uターンで転身中田文美さん

なかた あやみ●海女歴は7年。相差町出身で、就職等で県外に出たのち、地元に戻って海女に。5人の子どもをもつ母でもある。海の素材を使ったアクセサリーの製作・販売や、海外ゲスト向けの体験教室も開催している。

松井澄子さんプロフィール画像
海女歴57年松井澄子さん

まつい すみこ●77歳。20歳で海女になり、今も精力的に海に潜る。夫の操縦する船に乗り、沖合に出て、ローラーなどを使わず自力で海面まで上がり漁をする。企業CMで海女役の演技指導をした経験も!

海女文化が教えてくれた、自然とともに生きるための知恵

今回の取材では、鳥羽市相差町で生まれ育ったふたりの海女に密着し、話を聞いた。松井澄子さんは、今年でキャリア57年のベテラン海女だ。

「この辺では、昔はどの家でも海女の仕事をしておったんよ。うちも、何代も続けて海女さんやった。だから私も気づいたら自然となっていたようなものやね。小さい頃から、海に潜って海底の砂をつかんで上がってくる競争をしたりと、遊びがそのまま海女になる練習になっておったんよ」(澄子さん)

もうひとり、現在40代の中田文美さんは、就職等を経て地元に戻り、結婚して今は5人の子どもがいる。海女を始めたのは、4人目の子どもを産んでから。数少ない若い世代として活躍中だが、「海女になりたいと思ったことは一度もなかった」と笑う。

「だって私、泳げないんです(笑)。ウェットスーツと足ヒレがあるから、潜ることはできるようになったけど、今もあまり泳げないんじゃないかな。海女を始めたきっかけは、周囲の人がお膳立てしてくれたこと。『せっかくこの町におるんだから、あんたもやってみんか』って、ウェットスーツをくれた海女さんがおって。そのうち道具も揃ってきたし、『せっかくだからやってみようかな』と軽い気持ちで始めました」(文美さん)

望んでなったというよりは、気づけば海女になっていたと話すふたり。そのくらい相差の町では、人々の暮らしと海女漁が強く結びついている。それもあって、海女たちはみんなこの仕事を愛し、誇りを持って潜っているのが感じられる。澄子さんは、長いキャリアの中で海女を辞めたくなったことは一度もないと言う。

「海女さんほど自由な仕事はないからね。漁がなくても、毎日海に行って潜りたいくらい。健康にもええしな」(澄子さん)

文美さんは、海が最大の癒やしだと話す。
「潜っとるときは、海の中が自分だけのプライベート空間になる。思ったほど採れへん日はショックやけど、海に入ること自体がストレス発散になりますね」(文美さん)

ハイペースで減少していく全国の海女たち

海女さんの文化と未来。伝統を受け継ぎ、自の画像_6

だが、海女の数は年々減少傾向にある。1978年には全国に9000人ほどいた海女は、現在では1200人ほど。その半数が鳥羽市と志摩市にいるが、この地でも後継者不足の問題は深刻だ。1978年には350人いた相差地区の海女は、2022年の時点で72人に減少。現在、定期的に活動している海女の数は60人ほど。30代から80代まで幅広い年代の海女がいるとはいえ、その多くは高齢だ。

「いろんな人に海女を体験してほしいと思って、友達を漁に誘ったりもするけれど、『ちょっとやめとくわ』と断られてしまう。相差は海女の町です。海女文化を残していきたいと思ってはいるけれど、なかなか難しいですね。この間、小学2年生の娘が『将来は海女さんになろうかな』と言っていて。うれしかったけれど、今の子どもたちが海女さんだけを目指すのは、あまりおすすめできないなと思ってしまって」(文美さん)

「そうね。昔は、天気がよければ毎日のように漁に出とったけど、今はもう、海女だけで暮らしていけるということは絶対にないからね」(澄子さん)

現在、相差で海女漁が可能なのは、夏と冬の2シーズン、それぞれ最大で30日まで。潜る時間や、一度に採取できる量も細かく規制されている。資源を守り維持していくためには欠かせないことだが、結果的に海女の仕事だけで暮らしていくのは、以前と比べて難しくなっている。

海女さんの文化と未来。伝統を受け継ぎ、自の画像_7

出典:読売新聞オンライン
※2023年は読売新聞、’10年は鳥羽市立海の博物館の調査に基づく
※2023年の岩手県は’10年よりも調査範囲を拡大

「磯焼け」で海から海藻が消える日

さらに、海の環境が変化して、漁獲量が減ってきていることを、ふたりははっきりと感じ取っている。

「てんぐさ(ところてんのもとになる海藻)がすっかりなくなったね。そもそも、海藻の種類が減った。海藻がなくなると、貝も魚も、伊勢海老もおらんなってくる。そうやってどんどん、北の地域から採れなくなっているみたい」(澄子さん)

「私は海女になってまだ7年やけど、2〜3年前から海藻が減ってきているのに気づいて。始めた頃はアラメをかき分けるようにして泳いでいた場所が、今は全然海藻がなくなって、スーッと通れるようになっているんです」(文美さん)

この、海藻が死滅する現象は「磯焼け」と呼ばれ、海流の変化や海水温の上昇、ウニなどによる食害が原因とされている。鳥羽・志摩両市を中心に2009年から行われている海女のフォーラム「全国海女サミット」でも、磯焼けの問題が大きく取り上げられている。文美さんは、昨年の海女サミットに参加した。

「そのときに、志摩市の越賀の海に潜らせてもらったんです。そうしたら、本当に海藻が全然なかった。相差からほど近いところがこんな状態になっているのを目の当たりにして、ショックでした」(文美さん)

磯焼けが進んでしまうと、そこから藻場を再生させるのは困難だ。文美さんには、まだ相差の海に海藻があるうちに、なんとか手を打ちたいという思いがある。

「先日、鳥羽にある水産研究所の先生を呼んで勉強会をしました。ほかの海女さんたちに声をかけて、『まずは知識を入れていこうや』って。『海藻、なくなってきたねえ』と話すだけで済ませていたら、いかんと思うから」(文美さん)

「誰かに頼ってやってもらうことじゃないからね。この海は、私らの職場やから。なんでも自分らで考えてせなあかん。難しいことやで。でも、できる範囲でやらなあかんよね」(澄子さん)

海女は持続可能ななりわいの形

「よく聞かれるんですよ、『なんで空気ボンベを背負わないの?』って。確かに空気ボンベがあれば、時間をかけてたっぷり漁ができる。でも、素潜りでできる範囲に限って漁をしているからこそ、海女文化がここまで続いているのだと思う。資源を守りながらやっていくことにこそ、意味があると思っています」と話す文美さん。自然と共生し、持続可能な形で生活していく知恵に満ちた海女の文化からは、今こそ学ぶことが多そうだ。

参考:『鳥羽・志摩の海女 素潜り漁の歴史と現在』塚本 明著(吉川弘文館/2,420円)、『海女のまち 相差』(鳥羽商工会議所/200円)

韓国・済州(チェジュ)島の海女(チャムス)を知る

2016年、ユネスコ無形文化遺産に登録された韓国・済州島の海女文化。その現状とこれからの課題を聞いた

豊かな海を守るため、日韓の海女は連帯できる

韓国・済州(チェジュ)島の海女(チャムス)
©Peter Ash Lee
アン・ミジョンさんプロフィール画像
済州島生まれの研究者アン・ミジョンさん

安 美貞●1969年、韓国・済州に生まれる。漢陽大学文化人類学科博士課程修了。現在は国立韓国海洋大学国際海洋問題研究所・教養教育院教授。東アジアの海洋文化と移住者(在日、釜山の華僑など)や、日韓漁業文化の比較についての論文を多数発表。

日本と同様に、古代から女性による海女漁が行われていた韓国・済州島。韓国本土にも海女は存在するが、それは近代以降に済州島の海女が移住して広がったもの。済州島出身で、自身も海女として漁をした経験のある文化人類学者のアン・ミジョンさんに、済州島の海女文化の現状について聞いた。

かつて、鳥羽市で開催された「全国海女サミット」に参加し、市内で海女漁のリサーチをした経験もあるミジョンさん。日韓の海女文化の共通点として、「火を中心にして集まる女性の共同体文化」であることを指摘する。日本では、漁のあとに海女たちが小屋に集まり、たき火の周りで体を温めながらお弁当などを食べる習慣がある。同様に韓国でも、漁を終えた海女たちは火の周りに集まり、湯を全身にかけて暖をとるのだという。

「済州島には『ブルトク』という言葉があります。これは日本の釜のようなもので、このブルトクを中心にして、家族は生活を営みます。海女たちにはもちろんそれぞれの家族がありますが、漁をするときは海女同士で火を囲み、家族のように集まるわけです。もともと火は料理の象徴でもあり、女性と強く結びついたものでした。女性が中心の海女文化においても、火が重要なシンボルになっているのではないでしょうか」

一方で、日韓の海女文化には違いもある。日本では、夫婦で船に乗って、二人三脚で協力しあいながら漁をする「フナド」という形態があり、夫や兄弟など家庭内の男性が海女をサポートしていることが多い。しかし済州島では、漁に携わるのはあくまで女性のみ。

「済州島の海女たちは、漁に関しても生活面でも、連帯感がとても強い。また、沿岸の村には漁村契という漁業協同組合のような組織があり、そこでの海女会の発言力も非常に強いです。私がフィールドワークをした済州島内の村では、春には海神を祀る行事がありますが、これも海女たちが中心になって行います。漁以外の畑仕事なども女性たちが主導するのが一般的。済州島の海女たちは、仲間のことを『水の友達』という言い方で呼びます。一般の友達とは違う、強く連帯した関係なのです」

世界遺産登録を経て海女になりたい人は増えた?

アン・ミジョンさんの著書『済州島海女の民族誌「海畑」という生活世界』

2017年に発売されたアン・ミジョンさんの著書『済州島海女の民族誌「海畑」という生活世界』(アルファベータブックス/2,750円)。チャムスは済州島で使われてきた海女の呼称だ

 

2016年、済州島の海女文化はユネスコ無形文化遺産に登録された。同様にユネスコ登録を目指している日本の一歩先を行く形になったが、それに伴い、韓国国内での海女への注目度は増加。だが、それが直接的に後継者の増加につながっているわけではない。

「ユネスコ無形文化遺産の登録を受けて、私がもっとも期待するのは、海女文化の持続性です。海女文化が途絶えないように保護し、その重要性を記録する必要があります。しかしその点については、状況が改善されたとは言いがたい。済州島は国内でも有名な観光地であり、リゾート開発が進んでいます。海女にとっては、むしろその弊害のほうが大きい。沿岸の開発が進み、ホテルやカフェのほかにスキューバダイビングショップなどがたくさんできた結果、海女たちの漁場と衝突する事態も増えました。こうして海女の漁場が奪われてしまうと、海女たちは観光客へのパフォーマンスとして漁をして収入を得ることになるでしょう。観光の対象として消費されることが、海女文化の持続可能性に貢献するかというと、大いに疑問です。地球温暖化への対策と同時に、海の乱開発を制限することが求められています」

また、後継者不足への対策として、2015年には海女養成学校が誕生。地域の海女が先生になり、教育課程を修了すると「インターン海女」として漁ができるというもので、現在は済州島内に2校ある。ユニークな試みだが、これも後継者の育成に目覚ましい成果を上げているとは言えないのが現状だ。

「1校は、海女に興味のある人や観光客を対象とした体験型のもの。これは海女への理解を促進しますが、後継者を養成しているとは言えません。もう1校は移住と定着を目指すもので、海女の育成を目的としていますが、実際にはそう簡単なことではありません。学校では、息を止めて深く潜るテクニックなど、海女漁の技術的な面を伝えることに終始していて、海女文化の本質である共同体としての面が継承されているわけではありません。以前に鳥羽市の答志島を訪れたとき、海女たちがみんなで海産物を販売したり、地元の歴史を紹介したりしているのを見ました。日本でも韓国でも、地域のコミュニティが強化される方向性で海女文化を継承していくことが大切だと思っています。そういった情緒的な面をどう伝えていくかが、今後の課題ですね」

海女は世界に発信すべきメッセージの持ち主

ピーター・アシュリーの作品集『ザ・ラスト・マーメイド』より
©Peter Ash Lee

写真は、韓国系カナダ人でファッションフォトグラファーとして活躍しているピーター・アシュリーの作品集『ザ・ラスト・マーメイド』より。済州島の海女たちの自然な表情を写し取っている

ミジョンさんは済州島出身だが、中央部の山地で生まれ育ったため、もともと海女との交流はなかった。研究者としてフィールドワークをするために海女になり海に入ったのだが、この経験は人生でもかけがえのないものだったと話す。

「初めて海に潜った瞬間、自分の息の音だけが聞こえ、海水温が肌に伝わってきた。人間は自然の一部として存在しているのだということを実感できました。これは、地球環境のことを考える上でもすごく重要な認識だと思っています。一般的に海は危険な場所だというイメージが強いですが、海女たちの中では、海は祖先が受け継いでくれたものであり、みんな同じひとつの子孫だという認識があります。こういった考え方や海への知識が、おばあさんからお母さん、娘、孫へと、女性の経験を通して代々受け継がれ、蓄積している共同体というのは、世界でも珍しい。この点で、韓国と日本は強く連帯できます。韓国では現在、海女の文化的な面は注目されていますが、彼女たちが社会的にも意義のある存在として注目されているわけではない。持続可能な漁を行う海女たちは、世界に発信すべきメッセージを担った人たちです。日韓のネットワークをさらに広げて、青い海を守るために連帯していきたいですね」