戦争で犠牲になるのは子ども。だから平和を訴え続ける

爆心のほぼ直下にあたる原爆ドームと平和記念公園を一望する。戦前の姿を同じ角度から写した古いパノラマ写真が、広島平和記念資料館の展示室入り口に掲示されている
日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)がノーベル平和賞を受賞した2024年、代表委員としてオスロでの授賞式にも出席した箕牧智之さん。広島市街から車で1時間ほどの郊外にある北広島町のご自宅を訪ねた。
庭田杏珠さん(以下庭田) ご自宅に被爆手記の原稿がたくさんありますね。
箕牧さん(以下箕牧) 記念誌を作ろうとまとめている最中です。原爆投下時の広島の子どもたちは、現在、90代になられます。多くは学童疎開の間に、父親を戦争で、母親を原爆で亡くし、家族も家も失い波瀾万丈の人生を送った。そのことをいまの子どもたちに伝えてほしいとお願いして、書いてもらってきました。国家が戦争を起こす、国民が犠牲になる、特に子どもが犠牲になるのはいまも昔も変わらないからね。

箕牧智之さん(右)。ノーベル賞授賞式の際、ノルウェー国王らに贈ったという銅板の折り鶴を庭田杏珠さん(左)に見せてくれた。制作は広島みらい創生高校の生徒たち
庭田 ご自身は3歳だったそうですが、当時のことを覚えていますか?
箕牧 東京大空襲のあと家族で疎開し、爆心地から17㎞の場所に家がありました。8月6日の朝、家の外で遊んでいたらピカッと光り、雷が鳴ったと思いました。昼になってぞろぞろと(爆心地から)人が歩き出してきてね。一人の女の人が缶詰を差し出し、母に開けてくれと。お椀に中身を入れてさしあげたそうです。髪はぼさぼさ、服はぼろぼろ、まるで幽霊のように見えて、私は怖くて家の中に入ったのを覚えています。爆心地近くに勤めていた父が職場から帰らないので、翌日、母と1歳の弟と探しに行きました。
庭田 原爆投下直後の市内に入られ、街の様子を見られているのですね。
箕牧 全部の記憶はないけれどね。父は地下にいて助かり、帰宅しました。地上に出てみれば街がなく、みんな死んでおったのだろうと思います。父はそのときのことを何も話さなかったね。
庭田 終戦直後にお父さまの実家であるここ北広島町へ移り住んだのですね。
箕牧 農業をしましたが、貧しくて生きるのに精いっぱいでした。小学校5年生のときに高熱を出しました。アメリカから輸入した薬、ストレプトマイシンを使い3カ月で治ったが、薬代が高くてね。高校は定時制に通いました。

室内には数多くの書類が。長きにわたって手もとに集まってきた被爆証言者の手記や名簿、掲載記事などがある
庭田 戦後どれくらいの間まで、そうした苦労をなさったのでしょうか。
箕牧 15年くらい。東京オリンピック開催の3年前、昭和36年に勤めに出ました。世間の景気もよくなって、毎月給料が入るのがうれしかったね。初月給は一番苦労をした母にあげましたよ。
庭田 お母さまはうれしかったでしょうね。その後、被団協の活動に参加されたのはどのような経緯からですか。
箕牧 北広島の被爆者団体では、母が事務の面で手伝いをしており、だんだんと引き継ぐ形で活動に関わるように。その後広島県被団協前理事長の坪井直(すなお)さんに出会い、情熱に触れたのが大きな契機になりました。
庭田 箕牧さんは2010年、NPT=核兵器不拡散条約の運用検討会議が開かれたアメリカを訪れ、坪井さんたちと共に核兵器の廃絶を訴えられました。当時も大きなニュースになりましたね。
箕牧 そうです。ずっと貧しい暮らしをしてきて飛行機でアメリカに行くなんて夢のようでしたよ。私にとっては坪井さんもまた、雲の上の人でした。

北広島町の自宅は父・省吾さんの実家。箕牧さんは、ここを拠点に世界に向けて核廃絶と平和を訴え続ける。取材の直前にはろう学校の生徒たちへの講演、翌日には東京へ。夏はイタリアへも渡航予定だ
庭田 昨年私は、被団協の創設メンバーで現在98歳になられる阿部静子さんにお会いしたのですが、坪井さんについて同じようにおっしゃっていました。
箕牧 阿部さんは結婚されていた18歳のとき、原爆で大やけどを負われた。当時を知る数少ない人です。オスロでの授賞式から帰り、お土産を持って彼女が暮らす施設を訪ねたら喜んでいたね。手を握って涙が出てきました。
庭田 静子さんに受賞のときの気持ちをお尋ねしたら、天にも昇る気持ちだとおっしゃっていました。箕牧さんはじめ、皆さんが海外で被団協の歩みを紹介してくださるのがうれしい、喜びと責任を感じる、と。箕牧さんが原爆死没者慰霊碑に受賞の報告をされたときは私も取材に行きましたが、坪井さんたちのお名前を挙げられていたことも印象に残っています。たくさんの思いを受けとめて授賞式に行かれたのですね。
箕牧 その通りです。坪井さんはじめ被団協の先人たちと、34万人の無念の死を遂げられた方々のおかげです。
庭田 箕牧さんはどんな思いで、いま、原爆のことを伝えられていますか。
箕牧 たったいまもイスラエルがガザを攻撃する。ミャンマーでも、イランでも。いつもどこかで戦争しよる。ガザの子どもがね、血をいっぱい流して、食べ物がないと歩きよる。かわいそうで、何のために生まれてきたのかと思うよ。伝えるなんて、最初はそんなつもりはなかったが、母も、坪井さんも皆いなくなってしまって、もう83年も生きて。間もなく私も亡くなるでしょうが、こうなったらね、毎日のようにあちこちに呼ばれるけれど、伝えなければしょうがないね。やっぱり世界へ訴えていかんと、と思いますよ。
庭田杏珠さんによる、箕牧さんの「記憶の解凍」
広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)の前で撮影した箕牧さんの父の写真。対話とAIによって当時の色をよみがえらせる試み
庭田さんが高校時代から取り組み、広島テレビ入社後の現在も、ライフワークとして続けている「記憶の解凍」。AIや戦争体験者との対話などをもとに、被爆前後の白黒写真をカラー化する。今回は箕牧さんの父・省吾さんを写した昭和20年頃の写真。広島県産業奨励館の北側の通用口で撮影されたもので、特徴的なデザインの柱は原爆の爆風に耐え現在も同じ場所に残る。庭田さんが箕牧さんに「お父さまは当時どんな背広をお持ちでしたか」など質問をすると、当時繁華街であった爆心地・猿楽町に店を構えていた「川本商會」のこと、戦後農作業や日雇いの土木作業で日に焼けた省吾さんが、元は色白であったことなどが記憶からよみがえってきた。庭田さんによれば、カラー化はこの後何度かの取材と対話を重ねて完成するという。
原爆が家族に残した傷跡も憎しみを乗り越えた形で伝える

ご自宅での梶矢文昭さん。現在は亡き妻が丹精を尽くした庭の世話をしながら一人暮らしをしている
86歳の梶矢文昭さんは長年小学校の教員として働き、50代になってから被爆体験を語る活動を始めた。広島市街を見下ろす高台にあるご自宅には、教え子からの寄せ書きの色紙とともに、昨年、庭田さんが梶矢さんと対話を重ねてカラー化した、昭和19年正月に撮影した家族写真が飾られていた。
庭田 お久しぶりです。写真を大切にしてくださってありがとうございます。ここには梶矢さんのごきょうだいと末っ子であるご自身が写っていますね。原爆投下の後、梶矢さんとご家族がどのように過ごしてきたか教えてください。
梶矢さん(以下梶矢) 私は6歳で国民学校の1年生。2つ上の姉と、いまの広島駅の近くの分散授業所で被爆しました。当時は空襲が起きてもすぐ自宅に戻れるようにと、近くの民家に分校をつくって授業を受けたのです。ものすごい閃光を感じた直後、原爆の爆風で建物は壊れ、私は瓦礫を頭で突き上げ這い出ました。腐ったような臭いが強烈にしたのは覚えているよ。
庭田 お一人で、近くの二葉山のほうに逃げられたのですね。
梶矢 そう。父母と合流できたのは8月6日の夜でした。母は顔にガラスが突き刺さり傷だらけ。私のすぐそばにいた姉は柱の下敷きになったことで即死し、父が発見し運び出しました。そのときの姉がほほえんだような顔をしていたのが私の心に残っています。みんな怖い顔、苦しい顔で亡くなっていたのに、9歳の姉が原爆の中で穏やかな顔で死ぬ。これがずっと不思議で。

爆心地近くの寺で、梶矢さんの父が見つけてきたというガラスの一升瓶。高熱と上からの圧力で平たくゆがんでしまっている
庭田 お母さまは、お姉さまが亡くなられて長く後悔されていたそうですね。
梶矢 8月が来るたび涙をぽろぽろこぼして、仏壇に手を合わせるのです。10年以上たってもまだ泣きよる、自分の命を縮めるよ、と僕は怒った。すると初めて、長い間、胸にしまい込んでいたことを打ち明けました。当時、姉は縁故疎開に出ていたんです。母が着替えを持って行ったとき、「死んでもええからお母さんと一緒に帰りたい」と、すがりついて離れず、仕方なく広島へ連れ帰ったのだそうです。それが原爆投下のほんの3、4日前だった。
庭田 お姉さまが亡くなられたときの安らかな表情は、お母さんのそばにいられたからかもしれませんね。
梶矢 そうかもしれない。子どもは疎開で生き残ったが、街に残った家族が死んでしまい孤児になるという悲劇もいっぱいあったからね。母は94歳まで生きました。顔にザクザクの傷を負って、生きなきゃいけなかった。私の父親は偉かったと思う。どこへ行くにも母と一緒で、家でも絶対大事にした。自分にできるかと言われたら自信がないよ。片方の耳がつぶれ片目も失明した連れ合いを一生涯愛し続けた。当時は火傷のケロイドが残った女性もたくさんいた。戦後はみんな苦しかったけど、助けおうて生きていた。

戦争体験を子どもたちに伝えるために描いてきたクレヨン画。何十枚にもおよび、大切に保管されている
庭田 ほかのごきょうだいはご無事でしたか?
梶矢 兄二人は兵隊に出ていました。一番上が21歳で陸軍の特攻、二番目の兄が16歳で海軍予科練へ。無事に帰ってきて、戦争が終わったあとは本当によく勉強をしていました。勉強が楽しいと言って。それから上に姉がいたのですが、この姉は原爆から生き延びたあとで、精神的に参ってしまった。
庭田 当時おいくつだったのですか?
梶矢 23歳くらい。原爆が落ちる前はすごく優しくて、優秀だったといいます。一生懸命真面目に生きていた人間が、一発の原爆で死んでしまうようなことに直面したら、刹那的になっても仕方がない。どんなに頭がよくて、どんなに体を鍛えても、ピカーッと光って、ドンという一瞬で死ぬるじゃないか。そんな経験を通じて、心をやられてしまった人間は多かったと思う。

取材の翌日、上原沙也加さんは朝8時15分の平和記念公園を訪れ、地球平和監視時計を撮影した。時計の下のカウンターは広島への原爆投下からの日数と、最後の核実験からの日数を表している
庭田 原爆で、命だけでなく、穏やかな日々も奪われてしまったのですね。
梶矢 私は6歳の子どもだったから、食べ物が欲しい、おやつが欲しい、そんな日常の続きで過ごせたが。頭のいい人ほどつらかったのだろうね。いまだって、核兵器を使われてしまったら、どんなに頑張って築いてきた社会も、地位も、能力もいっぺんに駄目になる。原爆には、そういうふうに、ひどく非人間的な面があると思います。

袋町小学校平和資料館にて。ここは被爆当時、広島市内で鉄筋コンクリート校舎を持っていた数少ない国民学校のうちの一校。崩壊を免れた校舎の壁には、行方不明の家族に宛てた伝言が残され、その様が再現されている
庭田 梶矢さんがご自身の被爆体験をお話しされるようになったのは、どういうきっかけがあってのことですか?
梶矢 56歳、小学校の校長をしているときに、先生方から原爆の話を生徒にしてほしいと言われました。教職に就いたのは23歳の頃ですが、ずっと話をしてきませんでした。平和教育がイデオロギーと結びつきやすい時代が長く、自分の信念として教育の中に政治を入れ込んではいけないと考えていたのでね。驚いたけれど、自分の体験と、亡くなった姉のこと、大けがをした母親のことは子どもらに伝えていいのではないかと思うようになりました。
庭田 お話の手助けとして、ご自身で絵を描き始められたのですね。
梶矢 そうです。全校朝会の校長先生の話なんて、1、2年生は10分も聞いていられない。後ろの列の子どもにも見えるよう大きい絵を描いて見せながら、身振りもつけて話しました。実体験として話をすると、聞いてくれる。目の前の老人が自分たちと同じ年頃のときに、実際に原爆の中におって生き残ったということは、なんとなく伝わるものがあるのでしょう。

上原さんは広島湾に浮かぶ似島にも足を延ばした。原爆投下直後には多くの負傷者が運ばれ、のちに戦災孤児の収容教育所も開設された。広島市街と同様、平穏な風景の中に遺構がある
庭田 退職後、2005年に「ヒロシマを語り継ぐ教師の会」事務局長として、テニアン島を訪れ、広島に原爆を投下した飛行機に科学観測員として同乗していたハロルド・アグニューさんとお会いになって、直接、謝罪の言葉を受けられたそうですね。そのときは、どんなお気持ちだったでしょうか。
梶矢 原爆を投下した人間が悪いんじゃないよ。彼らは命令されれば行動する以外ない。やっぱり戦争そのものが問題です。戦争では、殺さねば殺される。そういうぎりぎりの状況で行動しなければならない。個人なんて関係なくなってしまうところが問題だね。
庭田 そうなのですね。そのとき、梶矢さんがテニアンの図書館に寄贈された、被爆して融解しケロイドのような痕が残るお釈迦さまの像は、いまも展示されていると同僚の記者から聞きました。
梶矢 大事にしてもらえているなら、もう言うことはないよ。私もあと4年で90歳、もう長くはないけれどね。原爆を受けて、いままで生きて、関心を持ってもらえて。幸せに、生き残ることが大事なんだと思います。
庭田杏珠さんによる、梶矢さんの「記憶の解凍」
原爆投下の1年前の正月に撮影した梶矢さんの家族写真を2024年10月にカラー化したもの
梶矢文昭さんの証言活動に触れた庭田さんは、2024年に「記憶の解凍」の一環として、梶矢さんの持つ戦前の家族写真に色づけをした。当時5歳の梶矢さんが前列左に立ち、右から長姉、次姉、長兄、次兄の5人きょうだいが、自宅の床の間に揃う。昭和19年の正月に撮影された、晴れ着姿の写真だ。AI技術でのカラー化のあと、対話を重ね、姉たちの晴れ着、正月飾りの葉牡丹の色、兄からのお下がりの服の丈など、さまざまな記憶がよみがえったという。特に、亡くなった2つ年上の姉・文子さんについては「生きていたらどんなおばあちゃんになっていただろう」と述懐した。
幸せな記憶を大切に守り、受け継ぎたい
幼稚園で、初めて広島平和記念資料館を訪れた日の夜、ショックで眠れませんでした。広島に育つと幼い頃から原爆について触れることが多いのですが「平和教育」に苦手意識があったのは、戦争の悲惨で残酷な風景と現在の自分とが結びつかないことの怖さやもどかしさからだったと思います。
一転したのは小学5年生のとき。戦前の広島の街並みと人々を写した写真を見ました。現在の平和記念公園にあたる旧中島本町には、映画館やカフェがあり、豊かな暮らしがありました。そのとき初めて、私の想像力が「過去の平和な日常」と結びつきました。いまの自分と同じように幸せな風景があったこと。それを一瞬で奪う原爆の恐ろしさを、自分と重ね合わせて感じられたように思います。
それ以来、自分にしかできない「平和の伝え方」とはなんだろう?と考え続けていた15歳のときに、中島本町の元住民の濵井德三さんに出会いました。疎開先に持参したために残った、被爆前の日常を写した白黒写真を見ながら、「原爆で失った家族をいつも近くに感じてほしい」との想いからカラー化を始めました。「記憶の解凍」の始まりです。東京の大学で学びながら取り組みを続け、やはり地元の被爆体験者の方々に日常的に寄り添い、想いを伝えたいと広島で就職することにしました。
2024年、広島テレビに入社する直前にお手紙をくださったのが、今回、箕牧さんへのインタビューでもお名前が挙がった阿部静子さんです。現在98歳になる静子さんは、手紙の中で、原爆で顔と手に大火傷を負い、差別を受けて生きてきた自分を「罪深い」と言っていました。しかし、「記憶の解凍」で戦前の自分の婚礼写真を色づけする過程の私との対話の中で「私は案外幸せだったのかもしれない」とおっしゃったことが印象に残っています。つらい記憶ではなく、幸せな記憶を思い出し、私たちに大切に打ち明けてくださること。それがとても貴重なことだと感じました。
今回の取材で箕牧さんは、被爆前の広島で過ごした3歳のとき、お父さまと食べたアイスキャンディのことを、梶矢さんは、家族写真でお姉さまが着ていた晴れ着のことを話してくださいました。そうした、ごく普通の幸せな記憶が失われないためにどうすればいいのか。感性と想像力に働きかけながら、私も、自分たちと、その先に伝え続ける一人でありたいと思っています。
阿部静子さんは18歳のとき、爆心地から約1.5㎞の地点で被爆。ケロイドの残る大火傷を負う。外見のせいで「赤鬼」と差別を受けながらも、1964年の「広島・長崎世界平和巡礼」への参加をはじめ、非核・平和活動を続ける。2024年に庭田杏珠さんの活動を知り、「記憶の解凍」で、戦前に写した夫との婚礼写真のカラー化を依頼した
生活と地続きにある戦争の手ざわりを探りあてる
私は生まれ育った沖縄で、生活しながら写真を撮っています。最近は隣島の台湾にも通っています。広島には今回初めて訪れました。広島市内を歩いていると、まさに私の立っている「ここ」に原爆が落とされたのだ、という実感を持ちました。中心に公園があることで、傷跡がひらかれている。
沖縄は地上戦だったので、至るところで惨劇があったのですが、日常を過ごす街から出来事を想起するには、風景に少し距離があるように思います。でも、目に見えない地中にはいまだにたくさんの骨や不発弾が眠っています。
箕牧さんと梶矢さんのお話を伺って、声の響きや深いまなざし、ご自身の生活空間に、80年という時間が留まっているように感じられました。お二人とも「自分たちに残された時間はわずかだから」と、冗談めかしておっしゃいます。それを聞くたび、私は生の語りを前にして、見たものや聞いたことの手ざわりをどのように残せるだろうと思いました。
何より、私は広島について知らないことがあまりにも多いことに気づかされました。そして、それぞれの場所で想像する戦争は、記憶の中だけでなく、目の前で起こり続けているさまざまな事象と地続きにつながっているということにも。
インタビューを終えてから訪れたのは、戦中に収容所や検疫所のあった似島と、現在も大きな軍港がある呉です。どちらも「軍事」と結びつきながら、人が暮らす生活の場所でもあり、観光地でもある。軍都として機能し、被爆した広島の過去と現在を確かめるために、一人で足を運びました。呉のショッピングモールの写真には、フェンスがあり、海上自衛隊呉史料館に展示された兵器が写っています。すぐそばの港には艦船が浮かび、さらに基地を配備する予定地がある。その複雑な眺めが、沖縄の島々で目にする光景と重なり、シャッターを切りました。
呉を訪れたのは夕暮れ時。ショッピングモールの看板に書かれた「you me」の言葉にも、問われているような気持ちになったと上原さんは語る