『ババヤガの夜』をダガー賞へと導いた、「翻訳家の仕事」とは?

近年、注目されている翻訳作品。文学を異なる言語で再生させる翻訳家の情熱と知性と技術に迫る

近年、注目されている翻訳作品。文学を異なる言語で再生させる翻訳家の情熱と知性と技術に迫る

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それが自分らを挑発する笑いであることに気付いた白シャツの一人が、顔を歪めて正面から女に飛び掛かった。
One of the white shirts, who understood her smile as a gesture of defiance, scowled and made a run at her.

「シッ」 空気を割くような音が、女の歯の間から漏れた。
Whoosh. A sound like a blade slicing through the air came through her teeth.
(『ババヤガの夜』p.6、『The Night of Baba Yaga』p.6より)

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翻訳とは意味を訳すのではなく作品の雰囲気を再現すること

世界最高峰のミステリー文学賞として知られるイギリスのダガー賞。今年、その翻訳小説部門を王谷晶さんの『ババヤガの夜』の英訳、『The Night of Baba Yaga』が受賞した。翻訳したのは、アメリカ人翻訳家のサム・ベットさん。英語圏での人気が高く、作者の王谷さんも授賞式で「日本のローカルな要素をこまやかに英訳してくれたサムさんに感謝したい」と述べていたように、本作の海外人気は訳者の力による部分も大きい。

「『ババヤガの夜』を翻訳することになったのは、日本の出版社からの提案がきっかけ。読んでみたら、すごく面白くて、やってみることにしたんです」
女性をエンパワーメントする本作から感じる生命力に惹きつけられたという。

「任侠映画のような勢いや活力があって、裏社会の深いところまで描写されています。一方、文体は無駄がなくて、さらさらと一気に読めてしまう。そこに作家の物語をコントロールする力をすごく感じたんですね。まるで文楽の語り手である太夫のように王谷さんが謡っていて、その存在が力強くあるから、どれだけ暗い話になっても物語として前に進んでいく。そこがこの作品のポイントだと思います」

そんなサムさんが翻訳する上で大事にしているのは、「意味を訳すのではなくて、その雰囲気を再現すること」だ。

「翻訳って、ただ品詞を違う言語に入れ替えることではないんですね。まずは原書を読んで、『この本はこういう作品です』という自分の読み方を伝えるのが翻訳家の仕事なんです。もちろん日本語は英語と語順が違うし、リズムも違うから完全に再現できない場合もある。でも、すべてを再現しなくても最終的に原作の雰囲気が伝わることが大事で、優れた原作だと、それがより伝わりやすくなると感じています」

宮大工と翻訳の仕事はちょっと似ている

サムさんが日本文学と出合ったのは大学生のとき。外国語の必修科目で日本語を選択したのがきっかけだった。大学卒業後、いくつかの仕事を経験したものの、せっかく勉強した日本語を活かした仕事がしたいと思うようになり、翻訳家に。英米からの評価が高い川上未映子の『夏物語』や『ヘヴン』など、純文学を中心に活動している。

「川上さんの作品はデビッド・ボイドとの共訳で、僕が地の文を訳し、ボイドがセリフを訳すという方法をとっています。共訳の場合、前半と後半を分ける方法もあるけれど、訳に差が出てしまうのが嫌だったので、既存の境目をあえて利用するやり方にしました」

次々と質の高い翻訳本を海外読者に届けているが、日本語を英訳する難しさは日々感じている。

「夏に日本のコンビニで花火が売っていたんですが、『煙少なめ、遊びやすい花火』と書かれたポップがあって、これを英訳するのは難しいなと思いました(笑)。侘び、寂びみたいに該当する英語がないということではなく、日本語の文法が英語とはあまりに違うんですね。じゃあ、どんな意図があるのかを考えると、近所迷惑にならないという日本社会的な背景を理解した上で欧米の文化で伝えるなら、子どもが煙を吸いにくくて安全、というニュアンスかなと。だとすると『Great for kids』みたいな訳がいいのかなと思いました。同様に小説でも何が一番大事なのかというところまでたどり着かないと、本当のことは伝えられないということです。だから翻訳をするときは毎回、作家さんと何百時間も対面するような、深いところの読書をしている感じです」

それは「宮大工の仕事のよう」とも。
「宮大工も繊細な仕事ですよね。一カ所間違えたら、全部のつじつまが合わなくなるから細かいところまで神経を働かせてやらないといけない。スキルだけでなく精神力も必要です」

近年は翻訳の世界にも人工知能の影響が及ぶものの、サムさんは楽観的だ。
「レトルトカレーと頑張って作ったカレーが違うように、AIが一瞬で訳したものと、翻訳家が苦労した上でできたものとは感じ方が違うと思うんですよ。やっぱり後者には深みがあると思う。そもそも人間には揺らぎがありますよね。小説だって完璧じゃない。でも、AIは完璧を目指すでしょう? だからそこには違いが生じると思うんです。そこに違うパーツを持ってきて穴埋めしたりして、一から新しいものを作り上げるのが僕たち翻訳家の仕事。これはAIにはできないんじゃないかな」

『ババヤガの夜』作者 王谷 晶さん

「ダガー賞はサム・ベットさんの素晴らしい翻訳に対する賞だと思っています。翻訳してもらうにあたって作中に出てくる日本のローカルなアイテムなどについて、日本ではこういうイメージがあって……みたいなことをお伝えしましたが、彼の翻訳はトリック的な部分を解決するアイデアや作品の雰囲気を伝えるためのこまやかな目線が本当にすごい。翻訳には、原作をより広く大きく届けてくれる力があると思います。私自身、鎌田三平さん訳のジョー・R・ランズデール作品や、宮本陽吉さん訳のヒューバート・セルビーJr.の作品に影響を受けました。絶版になったものも多いので復刊してほしいです」

サム・ベットさんプロフィール画像
日本文学翻訳家サム・ベットさん

Sam Bett●1986年生まれ。マサチューセッツ大学卒業。2015年、第2回JLPP翻訳コンクールで最優秀賞受賞。2019年、三島由紀夫『スタア』で日米フレンドシップ・コミッション日本文学翻訳大賞受賞。英米からの評価が高い川上未映子の『ヘヴン』や『すべて真夜中の恋人たち』はデビッド・ボイドとの共訳。

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