愛に誘う香りや、狂乱を表現したフレグランスまで? 十人十色の「愛」の香水
もうすぐバレンタインデー。日本では意中の相手にチョコレートを贈るイベントになっているが、14世紀ごろのヨーロッパでは、恋人や家族など大切な人へカードを贈り、愛を伝えるのが本来の風習だった。そんなバレンタインにちなんで、愛にまつわるエピソードをもつフレグランスをご紹介。香水の歴史にも詳しい、服飾史家である中野香織先生に話を伺った。
シェイクスピアや夏目漱石の小説でも描かれる愛の香り
中野 そもそも香水は愛と結びつく要素が大きいもの。16世紀ごろはムスクやシベット(第12回フェロモンと香り参照)、アンバーグリスなど動物性の香料が中心でした。シェイクスピアの『から騒ぎ』が1612年に上演されたとき、兵士のベネディックがべアトリスへの情熱が高まる中、ジャコウで体を擦る演出があったそう。
タイラ その時代は、動物から匂いのもとを採るのが一般的だったのでしょうか。
中野 それがわかりやすい求愛、ひいてはセックスアピールだったのでしょう。他には熟した果実の香りとか。それが18世紀になると、洗練された花の香りに。マリー・アントワネットは専属の調香師を雇って、自分のためのフレグランスを創らせていました。
タイラ 当時は、草や花など自然に香りを発するもので香水を作る方法しかなかった?
中野 そうです。ローズやジャスミンなど、芳香性の高いものを組み合わせて作っていたのですね。意中の人を惹きつけるために、香りをしみ込ませた布や革をブレスレットのように手首に巻き付けていたようです。
タイラ エルメスはツイリー発売時、メゾン クリスチャン ディオールはローンチの時に、細いスカーフも一緒に紹介していました。なるほど、そんな背景があったのですね。
誘惑的で、危険なチュベローズの香り
中野 愛を誘う香料としては、チュベローズが有名ですね。近世では女性がチュベローズの香りをまとって男性に迫ることが禁止されていたこともありますし、恋人同士がチュベローズ畑を通ることを禁じる風習もあったと伝えられています。理性的な判断を鈍らせるからでしょう。
タイラ チュベローズは、その昔は高級娼婦の香りと言われ、良家の子女はつけるものじゃないとされていたと聞きますね。
中野 ラグジュアリーフレグランスメゾンのアンリ・ジャックにトップからラストまで一貫してチュベローズの「ダンテルオクール」がありますよ。
タイラ アンリ・ジャックは香料濃度約100%だから、誘惑にはもってこい!?
中野 チュベローズより香り立ちは控えめですが、愛の薬草と言われているのがヘリオトロープ。紫の小さい花で和名が「匂紫(においむらさき)」。日本では19世紀後半に香水が入ってきたのでしょう。夏目漱石の『三四郎』や江戸川乱歩の『暗黒星』などの小説に香水の描写が出てきますよ。
タイラ 『三四郎』は昔、読んだことはあるのですが……、ほぼ覚えていません。
中野 三四郎が恋焦がれる女性がコートから取り出したハンカチについていたのが、この香りです。別れをほのめかすシーンではありますが、彼女をいっそう忘れられない女性として印象付ける効果はありますね。
タイラ スカーフやハンカチから香らせる方法、やってみようかな?
さまざまな愛の在り方や、感情を表現するフレグランス
中野 フレグランスって香調はもちろん、ネーミングやコンセプト、ボトルデザインに至るまで、趣向が凝らされている。さまざまな形で、愛の在り方と感情を表現していると思うんです。有名なところではサンスクリット語で“愛の神殿”という意味のゲランの「シャリマー」。
タイラ ムガール帝国のシャー・ジャハーン王とその寵愛を受けたマハール妃が、愛の日々を過ごしたというシャリマーガーデン。ゲランの3代目調香師、ジャック・ゲランが2人のラブストーリーに感銘を受けて創った初めてのオリエンタルフレグランスです。2025年はシャリマー100周年を迎えるんですよ。
中野 80年代の映画『ワーキング・ガール』('88)で、シガ二ー・ウィーヴァーがハリソン・フォードを誘おうとして、ベッドでシャリマーをシューッと吹きかけていたシーンが印象的。よく覚えています(笑)。
中野 シャリマーの美しい愛の物語とはまたひと味違って、狂気を感じさせるギリシャ神話の月の女神に着想を得ている香りがペンハリガンの「ルナ」。
タイラ 爽やかなフローラルグリーンの清らかな香りですよね?
中野 月の女神がゼウスの息子のエンディミオンの美しい顔に魅せられ、その顔をいつまでも眺めていられるように永遠の眠りにつかせたという物語。ちょっと怖い、常軌を逸している系の愛のカタチ。
タイラ それはちょっと怖いですね。でも、恋焦がれる気持ちや官能的な月明り、夜のダークなトーンまでが、香りで描かれているようで面白いですね。
中野 さまざまな愛のカタチの普遍性を香りに昇華しているブランドといえば、ドルセーがありますね。
タイラ 2015年にリブランディングした、約200年前にパリで人気を集めた伝説のパフューマリーですね。香水名は、愛の在り方を探る手掛かりとなるフレーズと、その香りにまつわる人物のイニシャルというのがミステリアス。
中野 フランス語で「Jusqu’a toi.(ジュスクアトワ)」という香りがあるのだけど。「あなたに真っすぐ届けたい」という思いをストレートにぶつけるような感じ?
タイラ イメージとしてはあなただけとか、あなたしか見えないといった感じでしょうか。日本語の香水名は「あなたにとって」となっています。
中野 きれいなバラの香りですよ。やはり恋愛というと、バラは鉄板ですね。
100本のバラを贈られたような、高揚感をもたらすローズフレグランス
中野 バラと言えば、ジョー マローン ロンドンの「レッド ローズ」は定番中の定番ですが、やはり外せない! 私自身も5、6本リピートしましたし、人に贈ってもまず嫌がられません。この香りはバレンタインデーに発表されたんですよ。
タイラ ロマンチック~! 本当にバラの花束をもらったような、みずみずしく爽やかな香気ですよね。シンプルだけど、本当にいい香り。好きな人が多いのも納得です。
中野 100本の真っ赤なバラの花束をもらって、嫌な気持ちになる女性はまずいないと思うし、このフレグランスはまさに花束をもらったような高揚感があると思います。まあ、恋をしているときはどんな匂いも愛しく思えてしまうものですしね。ちなみに、愛が覚めたときの香りをfishyと表現することもあるのですが。
タイラ fishy……。魚の匂いですか⁉︎
中野 生臭いというか、どんより感のある匂いで、うさん臭ささえ覚える匂い。それを相手の肌から感じると、愛は完全に終わったということですね。香りっていろんな要素が混然一体となっていて、いい香りだけを掛け合わせても素晴らしいものは生まれない。それこそ、動物の糞尿みたいな香りを入れることもあるわけです。
タイラ それって、愛している時は短所も長所に感じるけれど、嫌いになった途端、嫌な匂いが鼻に届いちゃうということ?
中野 それはなんとも言えませんが、美しい香りは美徳、崇高な愛の象徴。臭い匂いは背徳とセットになっていて、とにかく嗅覚は愛情を感じるセンサーと深く結びついていると言えるのではないでしょうか。
タイラ そうですね。何はともあれ、愛する人と麗しい香りに包まれて、ハッピーバレンタイン!
ラグジュアリー領域に関する知の総合デパート。イギリス文化、ファッション史を専門。時代時代で移り変わるファッションの流行から当時の価値観や人間性などを紐解く。新聞、雑誌に数多く連載をもつ。近著に『英国王室とエリザベス女王の100年』(君塚直隆氏と共著、宝島社)他多数。フレグランスは過去の名香から最新のものまで造詣が深い。
取材歴30年。SPURのフレグランス企画の連載担当ライターとして活躍。この連載を機にフレグランスの世界に魅せられ、現在は資格取得を目指してフレグランスの歴史やトレンドを学び直し中。