東京大空襲で亡くなった方のご遺体を東京都民総出で片づけるとは?

 あなたは漆黒の夜空が明るく朱に染まり、まるで昼のようになった光景を見たことがあるだろうか?
「空が真っ赤に焼けていて、本当に、庭に出てその明るさで本が読めたくらい。当時は家の中でも灯という灯に黒いカバーをかけて、光が外に洩れないようにしなければならなかったから、夜、本を読むなどということは不可能だったんですね」
 黒柳徹子さんは昭和20年3月10日の東京大空襲のことをはっきり覚えているという。小学生だった黒柳さんが、母、3歳の弟、そしてまだ乳飲み子だった妹と住んでいたのは、東京の閑静な住宅街、洗足池界隈。夜なのに異様な明るさは、子どもであっても空襲による火事だとわかり、「どうしよう、どうしよう。こっちまで燃え広がってきたらどうしよう、と慌てふためいていたら、母が、『夜の火事は近くに見えるものなのよ。多分あれは目黒あたりだから、そんなに慌てなくても大丈夫』と言うんです。実際は(隣の区の)目黒どころではなく、今でも電車で1時間もかかる深川とか下町のほうがやられていた。その炎が東京全域を明るく照らしていたんです」。
 一晩で10万人の方々が亡くなった悲劇。私たちもその事実は知っている。でも、黒柳さんが教えてくれる次の話を聞いても、自分にはあまり関係ない遠い昔の出来事、と冷静でいられるだろうか。
「あの大空襲の次の日、一家族から一人は出すように動員がかけられたんです。多くのご遺体を片づけるために。ただ、私の家は父親が出征していて、男手がなかった。すると、『ならばスコップを供出しろ』と言われ、家にあったスコップを差し出しました。さすがに母は、これ以上東京にいては危ない、と疎開を考えるようになりましたが、とはいえ地方に親戚などいませんでした。かつて家族で北海道に旅行に行ったとき、青森を通り過ぎる頃に、私が列車の窓の外に見えるいろんな木を『あれは何の木? りんご⁉ うわあ!』とはしゃいでいると、隣の席のおじさんが『お嬢ちゃん、りんごが好きなの?』と聞いてきて、『大好き!』と言ったら、『じゃ、送ってあげよう』と、モミガラに包まれたりんごが届いたことがありました。そのつてで、その青森のおじさんのりんご農園の中の作業小屋というか、見張り小屋に住まわせてもらえることになったんです。本当に本当に狭い小屋でしたけど、東京の家はその後焼けてしまいましたから、母の決断は正しかったんですね。ほんの細〜いつてだったにもかかわらず、思い切ってお願いしてみたというのは、もちろん3人の子どもを抱えて、父も不在で、まだ30代だった母は必死だったのだと思います」
「夜の火事は近くに見えるもの」というどこかで得た知識といい、黒柳さんの母、朝さんのこの聡明さこそ、有事の際には重要。そう心底敬服させられるが、昭和、平成、そして令和と常に第一線で活躍してきた黒柳さんにとって、生き方の核になっているものが、その話しぶりから伝わってくる。

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