父・守綱さんが出征する以前に撮影された、貴重な家族写真
黒柳家だけでなく、家族の誰かが兵役にとられ、出征したとき、残された者にとって一番の心痛は、戦地に赴いた身内の安否が定かでないことだ。
「父もそうでした。中国に出征し、終戦でソ連の捕虜になった。そのことは新聞に載ったんです。当時はある程度名前が知られている人間の消息が、そうして伝えられたりもした。そして、シベリアで炭鉱堀りなどの強制労働をさせられていたというのもわかったのですが、戦争が終わって捕虜になっていた方々も続々帰ってきているのに、父の消息はわからない。実は、父は自分がヴァイオリニストだということがソビエト軍に知られて、ヴァイオリンを与えられ、日本人収容所各地を回る慰問団を結成させられたらしいんです。でも、そういうときって、根も葉もない噂話をする人がいるんですね。父のことも、『慰問団から脱走しようとして、ソ連兵から撃たれて死亡した』と言うの」
誰がこんな心ない話を、当事者の家族の耳に吹き込むのだろう⁉ SNSなどなかった時代なのに、他人の不幸を面白がる人間の卑しい業のようなものだ。しかし、ここでも黒柳さんの母、朝さんは冷静だったという。
「そんな話を聞いても、『お父さまはとても慎重な人だから、無謀な脱走なんてするわけがありません』と毅然としていました。でも、実際に逃げ出そうとして撃たれた人もいるというから、母が言うとおり父が慎重でいてくれて、私たち家族も助かりましたよ」
家族の絆、夫婦の絆は一方通行ではなく、相互に固く結ばれているんだな、と納得するエピソードも黒柳さんは教えてくれた。出征する前、家族で撮った写真を父・守綱さんは軍服のポケットに忍ばせ、常に家族とともにいる気持ちで過酷な捕虜生活を送っていたのだった。あるとき、捕虜たちの世話をするソ連人のおばさんが「家族はいるのか?」と聞いたのだとか。そこで守綱さんが大事にしまってあった件の写真を見せると、彼女はこう言ったという。
「『こんなにきれいな奥さんと可愛らしい子どもがいるんだから、決して逃げようなんて気を起こしちゃダメよ。絶対帰れるんだから』と。結局、おばさんの言ったとおりになったわけですものね」
もっとも朝さんも、ただ黙ってじっと日本で待っていたわけでなく、戦地からの引き揚げ船が帰港する真鶴に手紙を書き、また復員の兵隊さんの乗った汽車が諏訪ノ平駅に止まるたびに、汽車の窓から頭を突っ込んで「黒柳守綱のヴァイオリンを聴いた方はいませんかあ⁉」と尋ねて回っていたというから、その行動力には驚くしかない。
「終戦から4、5年たって、ようやく父が帰ってきて、品川駅まで出迎えに行きました。でも、映画やドラマだと子どもが父親に飛びついたり、家族が抱き合ったりするけど、もっと淡々とした再会だったような気がします。というのは、出征した父がどこにいるのかわからない、安否不明で心配していたときのほうが、ドキドキだったから。父にしても、(出征当時)3歳だった弟は父のことをあまり覚えていないし、ましてや赤ん坊だった妹は『このおじさん、誰?』という表情で見てるし(笑)。私に関しては、『もっと大きくなっているかと思った』と父が言うんですよ。私は小さい頃、足が大きくて、あの分だったら将来165センチくらいまで伸びるだろう、と。結局160センチ止まりでしたけど(笑)。栄養失調だったから仕方なかったんですね」
ドラマでも小説でもない、リアルな家族の再会ストーリーにむしろ胸を打たれる。