2020.08.08

4000度にも達した熱線が、大事な妹の命も奪っていった

細川浩史さん Kohji Hosokawa
1928年広島県生まれ。17歳のとき、被爆するが、奇跡的に助かる。’96年、原爆で亡くなった妹の日記を『広島第一県女一年六組 森脇瑤子の日記』(平和文化)として刊行。「戦後、原爆のことは記憶から消し去りたいと思っていた」が、これを機に積極的に体験談を語るように。2000年より、広島平和記念資料館でボランティア・ガイドを務めるほか、広島市「被爆伝承者」養成プロジェクトにも参加。


水を求める瀕死の中学生たち。みんな目の前で息絶えました

「あの日、原爆に遭った誰もが、いくつかの爆弾のひとつが自分のところに落ちたと思っていました。まさか一発の原爆だとは、思っていませんでした」
 終戦間近の1945年8月6日、午前8時15分。広島市に投下された原子爆弾は、一瞬にして市街を焼き尽くし、市民約35万人のうち14万人の命を奪った。当時17歳だった細川さんは、旧広島逓信局の4階で被爆。そこは爆心地から1.3キロの地点だった。
「何の前触れもありませんでした。ピカッという強烈な閃光を感じた次の瞬間、デスクにいた私は窓から飛び込んできた熱線と爆風で吹き飛ばされました。人間も机も椅子もすべてがゴミのように叩きつけられました。頑丈な建物だったため倒壊はしませんでしたが、粉々に砕けた窓ガラスが凶器となって突き刺さり、みんな全身血まみれの重傷でした。私はまだ軽いほうで自力で歩くことはできました。大きな柱の陰の席だったため、柱が熱線やガラスの破片を遮ってくれたからです。
 とにかく私は同僚と500メートルほど離れた京橋川の河原に逃れることにしました。そして建物の外に出たとき、初めてその被害が尋常ではないとわかりました。広島の原爆は、原爆ドームのほぼ真上600メートルの上空で炸裂したため、上から下への強烈な爆風によって木造の住宅が、まるでマッチ箱を上から押しつぶしたようにぺしゃんこになっていました。中からは『助けてくれ』といううめき声が聞こえましたが、自分が逃げるので精いっぱいでした。
 河原に着くと大火傷を負った人であふれていました。広島の原爆では、爆心地の地表面に届いた熱線は、一瞬4000度に達したといわれています。その熱線が爆風とともに吹きつけたため、一瞬にして皮膚がはがれてしまったのです。ちょうど手袋を脱ぐときに手袋が裏返しになりますが、まさにそんな感じで、めくれた皮膚をぶら下げた人が大勢いました。河原には中学1年生の少年たちもいました。彼らは外で建物の解体作業をしていたため、直接熱線を浴び、瀕死の状態でした。喉が渇くのか水を求められましたが『火傷患者に水を飲ませたら死ぬ』と教えられていたので与えませんでした。少年たちはみんな間もなく息絶えました。あのとき、水を飲ませてあげればよかったと今も悔やまれてなりません」

何万人の夢も希望も将来も、全部断ち切るのが戦争です

 その晩は川の上流にある同僚宅に泊まり、翌朝、市街に戻った細川さん。そこで目にした光景に愕然としたという。
「倒壊した家々はすべて灰になり、一面が焦土と化していました。そこには白骨遺体や半焼けの遺体、パンパンに膨れ上がった遺体がそこらじゅうにころがっていました。それは昨日、助けを求めていた人たちでした。何万の人たちが生きながら火葬にされたのです。今でも広島の町を歩いていると、このときの惨状がフラッシュバックのように脳裏をよぎることがあります」
 さらに宮島の実家に戻ると悲しい知らせが待っていた。4つ下の妹の死だった。
「家に帰ったときは誰もいませんでしたが、しばらくして号泣する母の声とリヤカーのきしむ音が外から聞こえてきました。飛び出すとリヤカーには全身焼けただれた妹の遺体が乗せられていました。顔がきれいだったのがせめてもの救いでしたが、大切な妹を失って、私はただ茫然とするばかりでした。
 その日、妹は学徒動員の屋外作業の初日で、爆心地からわずか700~800メートルの、しかも遮蔽物は何もない至近距離で原爆の直撃を受けました。そして1年生223人と引率の先生5名、全員が被爆死しました。それでも遺体が見つかっただけ幸運でした。多くの人は行方不明で、それを捜すべき親兄弟も亡くなっていました」
 生き残った人たちにも地獄が待っていた。ひどいケロイドに悩まされる人、被爆の後遺症や差別・偏見に苦しむ人々……。細川さん自身もその後原因不明の病を発症。2回も緊急手術し、今も後障害の再発におびえている。
「戦争の話をするとき、『何万人死んだ』という人数だけで片づけようとする人がいますが、人間はモノではないのです。その何万人の夢も希望も将来も、全部断ち切ってしまうのが戦争なんです。だから、広島のことをどうぞ自分のこととして受け止め、考えて、記憶し、伝えてほしいのです」と細川さん。「戦争は人間を狂気にし、その究極が原爆です。原爆は人間の存在を否定するものなのです」とも。
「私に残された時間はわずかですが、『次世代へヒロシマを伝承する』ことが私に課せられた最後のミッションだと思っています」

恒久平和を記念する施設として、平和記念公園の中に建設された「広島平和記念資料館」。被爆者の遺品や写真など、貴重な展示のほか、証言ビデオコーナーも設置。
広島平和記念資料館 住所:広島市中区中島町1の2 TEL:082(241)4004 開館時間:8時30分~18時、~17時(12月~2月)、〜19時(8月)※入館は閉館の30分前まで 休館日:12月30日・31日、展示入替期間



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