水木しげるさん Shigeru Mizuki
1922年鳥取県生まれ。享年93歳。マンガ家。太平洋戦争中の’43年、ニューブリテン島ラバウルへ出征。空爆にあい、左腕を失う。「戦地には愛読書だった『ゲーテとの対話』を持っていきましたが、本など読む時間も余裕もなかった。絵を描くこともなかった」。1946年、3年ぶりに日本へ復員。1958年マンガ家としてデビュー。代表作に『ゲゲゲの鬼太郎』など。『水木しげる漫画大全集』(講談社)発売中。取材後永眠。
マラリアで命を落としたり、ワニに食べられた者もいた
「ニューブリテン島ラバウルは、激戦となっていることが知られていたので、行く前から何となく不気味でした。出征前、一度、里帰りしたのだけど、そのときはお互いほとんどしゃべれなかった。親も覚悟を決めていたのかもしれません」
太平洋戦争の激戦地として知られる南方戦線。当初は優勢だった日本軍だが、長引く戦いに、島々では兵力や補給が不足し戦況は悪化。熱帯のジャングルで、兵士はいつ終わるともしれない過酷な戦いを強いられ約100万人が命を落とした。
21歳の水木さんが送り込まれたのはそのひとつ、ニューブリテン島。パプアニューギニアの北東に位置する小さな島だ。多くの兵士が飢えと病に苦しんでいた。
「食べ物はご飯と、中身のないしょうゆ汁、パパイアの根を煮たものや大根漬け。おなかが減ってカタツムリを採って食べたりもしました。焼いて食うと柔らかくてとてもうまいんです。宿舎は粗末な小屋で、夜、眠っているとハエが人間の目くそや鼻くそなんかを食べに来る。気がつくと顔に何匹もたかっていました。島に着いてしばらくは戦闘よりも土木作業が多くて、陣地を作ったり、穴を掘ったり。ジャングルでの厳しい作業で体調を崩したり、マラリアで命を落とす者やワニに食べられた者もいました」
しかし飢えよりも病気よりも、兵士を怯えさせるものがあった。それは理不尽に暴力を振るう上官たちだった。
「軍隊は10人ほどの分隊で行動します。そこには分隊長と古兵がいて、僕のような下っぱの新兵は虫けらのように扱われた。銃がサビついていると『天皇陛下からいただいた銃を粗末にした』と半殺しの目にあったり、帽子のかぶり方が悪い、歩き方がだらしないというだけでバチバチバチとビンタされる。それも一日に50発も100発も殴られるんです。僕は行動が遅かったし寝坊だったから、いちばんよく殴られた。椰子で作った下駄でも殴られました。これが鉄のように硬い。それでも『古兵殿、ご注意ありがとうございます!』なんて言わなければならない。何の楽しみもないから殴るのが楽しみなんだね。頭がおかしくなっているわけです。もうそこは異常な世界ですから」
散乱した敵の死体。自分もすぐそんな姿になると思った
ラバウルから前線へと徐々に移動するにつれ、戦闘は激しくなり、バイエンに着いたときには、「今度こそ、助からないだろう」と覚悟を決めたが、最前線の様子は想像と少し違っていた。
「前線は生きるか死ぬかの世界。でも、敵も同じ気持ちなわけです。死ぬのが怖い。だから勇ましく突撃するようなことはめったにない。ダダッと撃ったらパッと隠れる。ぐすぐずした感じでした。あるとき、オーストラリア兵の死体が散乱しているところに遭遇しましたが、自分たちもすぐにそんな姿になるのだと思いました。そう思うと敵への憎しみは感じませんでした」
しかしほどなくして部隊は敵の奇襲にあい、全滅。水木さんは九死に一生を得るが、マラリアを発症。高熱で寝ているときに今度は空襲にあい、左腕を失った。麻酔なしの切断手術に耐え、痛みや高熱と戦いながらの療養生活。それでも「やっと人間らしい生活ができるようになって、内心ホッとした」と言う。
「左腕がなくなっても、命があるんですから幸運でした。ラバウルで死んだ連中は生きたくても生きられなかったんですから」
ラバウルの原住民の村落に出入りし、交流を深めていったのもこのときだった。
「彼らも僕ものんびりしている。だからとても気が合ったんですね。向こうも水木サンのことを気に入って『家を建ててやるから、ここへ住め』なんてことを言う。いつもせこせこした日本人と違って、彼らにはゆったりした気持ちがありました。ほかの日本兵は『土人』と言って、彼らを差別していたけれど、『土人』というのは『土の人』。土と生きる人間への尊敬を込めた呼び方だと思うね。自分にとっては人を殴ってばかりいる上官のほうが、よっぽど野蛮だと思った。
戦争をする国になるということは、理不尽なことが当たり前の国になるということです。きっと今の若い人は耐えられないでしょう。前線に行けば、みんなそうなる。それが戦争の現実です」