知花くららさんが聴く、小倉桂子さんの8月6日

60歳を過ぎてから、自らの被爆体験を語り始めた広島の語り部の小倉桂子さん。沖縄戦で、集団自決の生き残りとなった祖父から壮絶な体験を聴いた知花くららさん。世代を超えて、戦争を「伝える」ことの難しさと大切さを語り合う

 

Keiko Ogura
1937年、広島県生まれ。8歳のとき、自宅付近にて被爆。’80年、通訳・コーディネートを始める。’84年、「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」(HIP)設立。2011年、英語による被爆体験証言開始。’13年、第25回谷本清平和賞受賞。

Kurara Chibana
1982年、沖縄県生まれ。モデル。国連世界食糧計画(WFP)日本親善大使。2006年、ミス・ユニバース世界大会2位。’15年には女優としてもデビューし、ドラマやCMなど幅広く活躍。著書に歌集『はじまりは、恋』(角川書店)など。

「広島平和記念碑」、通称、原爆ドーム。1945年8月6日に広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える被爆建造物として、当時の姿をそのままに残している。爆心地の島病院から、わずか160mの距離にあり、3階建ての建物はほぼ全壊したが、中央のドーム部分は全壊を免れた

 

黒い雨でブラウスにシミができ、母に叱られると思いました

知花 今日はオンラインでの対談、どうぞよろしくお願いいたします。
小倉 こちらこそ、お願いします。
知花 パソコンも自在に操っていらしてすごいですね。
小倉 こんな時代ですから、Zoomでも何でも使えないとダメだと思っているんです。おかげで海外とやりとりするのも便利になりました。
知花 小倉さんは「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」(HIP)を立ち上げて国外にも発信するなど、精力的に活動されていて素晴らしいです。
小倉 ありがとうございます。今日は1945年8月6日に私が体験したことをお話ししますが、まずこの映像を見てください。これは原爆投下から2カ月後の動画で、爆心地を中心に広島の町を360度映し出したものです(焼け野原となった広島が映し出される)。
知花 本当に跡形もないというか……。何もないですね。
小倉 建物が一部残っているだけで、すべて崩壊して、南のほうは海までずっと見えています。そこまで完全に焼けたり破壊されたりしたということです。原爆投下時刻(午前8時15分)に、私がどこにいたかというと、爆心地から東へ約2.4㎞のあたり、二葉山を越えたところにある自宅付近にいました。私が8歳になったばかりの頃です。
知花 当日は小学校には行ってなかったんですね。  
小倉 はい。被曝前夜の5日の真夜中から明け方にかけて、何回も警報が鳴り、飛び起きては防空壕に入ってというのを繰り返していたんですね。父は何か異変を感じたようで、朝、「今日は学校に行くな」と。そんなわけで家にいました。学校に行っていたら同級生のようにケガをしていたかもしれません。
知花 お父さまは第六感で何か感じたのかもしれないですね。
小倉 8時15分頃、私は自宅近くの細い道にいました。そのとき、突然、ピカーッと光って目の前が真っ白になりました。同時に強烈な爆風で地面にたたきつけられて気を失いました。意識が戻ると、粉塵やススで、あたりは真っ暗。近くの家の藁葺き屋根が燃えているのが見えました。恐ろしいほどの静けさの中で泣き声が聞こえてきました。弟の声でした。あわてて家に戻ると、自宅はひどく壊れて、ガラス戸は壊れ、粉々になった無数のガラスの破片が壁や柱に突き刺さっていました。弟は頭から血を流していましたが、両親と姉妹たちは無事でした。
すぐに「ほかはどうなっているんだろう!?」と外に出たとき、「黒い雨」が降ってきました。
知花 原爆投下のあとに、広島で降った雨ですね。爆弾の炸裂によるチリやススのほか、放射性物質も含んでいたと聞きました。
小倉 はい。でも当時はそんなことは全然知りませんから、ブラウスにグレーのシミがたくさんできて、「どうしよう、お母さんに叱られる」と思ったのを覚えています。
じつはこの時点で一番上の兄の行方は不明でした。当時は学徒動員といって、中学生以上の学生は、軍需産業や食料生産にみんな駆り出され、兄も広島の街に出ていたのです。でも、心配はまったくしていませんでした。なぜなら私たちは被害の大きさから、自分たちのいるところに爆弾が落ちたのだと思っていたんです。「兄は家にいなくてよかった」と話していました。ところが半日たち、「お母さ~ん、お母さ~ん!」と言いながら帰ってきた兄を見て驚きました。手や顔に火傷をして、服もぼろぼろ。そのときになって初めて、広島市の中心部は壊滅状態になっていることを知りました。
あとから聞いたのですが、兄は当日、農作業に駆り出され、たまたま広島駅の北側にある芋畑にいました。そのとき、アメリカの爆撃機B-29が飛んできて、何か黒いものがポツンと落とされる瞬間を見たそうです。それが原爆でした。兄はB-29が飛んで行くのを目で追いながら後ろを振り返りました。その瞬間、原爆が爆発しました。後ろを見ていて直接、閃光を見なかったから、目を侵されずにすみました。兄は軽傷ですみましたが、爆心地近くで作業をしていた同じ学校の下級生230人は、全員亡くなりました。誰ひとり助かった人はいませんでした。

 

私は人を殺したのではないか、と恐怖で足が震えました

知花 広島の原爆では、当時、市内にいたと推定される約35万人のうち、約14万人が4カ月のうちに亡くなったと言われています。ご家族が無事だったとはいえ、恐ろしい思いをされたのではないですか。
小倉 そうですね。爆発からしばらくすると、街から逃げてきた人たちが、列を成して家の前を通りすぎていきました。戦争中、神社やお寺が臨時の救護所になるという噂があったので多くの負傷者が近くの神社に集まってきました。神社の石段は重傷者で埋め尽くされました。みんな血まみれで、皮膚がめくれて垂れ下がっている。ところが、お医者さんもいないし、薬もありません。「水、水……」と苦しそうにうめきながら、そのまま息絶える人もいました。
誰かが私の足首をつかみ、「水をくれ」と訴えたので、私は走って井戸から水をくんできて二人の男性に渡しました。すると二人は水を飲んだとたん、ガクンと亡くなってしまったのです。私はたいへんなショックを受けました。
さらに父と話していたら「おまえたち、まさか負傷者に水をあげなかっただろうね」と言うんです。兄は「そんなこと、誰だって知ってる」と答えました。私は愕然としました。水がダメだなんて知らなかったんです。自分は人を殺してしまったのではないかと恐怖に震え、このことは生涯、誰にも言うまいと決めました。
知花 聞いているだけで、胸が苦しくなるような経験です。負傷者に水をあげてはいけない、というのは、当時の常識だったんでしょうか。
小倉 はい。ひどい火傷を負った人は、熱が出たり、脱水症状になったりして、水が欲しくなるのです。本当は、少しずつなら飲ませてもいいそうですが、当時は「お水はいけない」と言われていました。実際、目の前で人が亡くなったこともあり、これが私のトラウマになりました。
父はこの日から何百という遺体を荼毘(だび)に付すのに追われました。彼はそのときのことをほとんど話そうとしませんでしたが、血膿でどろどろになった重い遺体を毎日のように火葬する作業は、さぞつらいものだったと思います。
それから毎日、神社がある高台から焦土と化した広島の街を眺めました。至るところから遺体を焼く煙が立ち上り、街のすべてが火葬場になったようでした。火傷を負って川に飛び込んだまま亡くなった方々も多く、遺体が川から流れてきたそうです。一番怖かったのは、ケガもしていない人が突然亡くなることでした。お医者さんにも理由はわかりません。それが放射能の影響だというのは、あとで知りました。
知花 小倉さんご自身は、体調に変化はなかったんですか。
小倉 ケガはすり傷程度でしたが、しばしば鼻血が出ました。のちに放射線の被害が明らかになると、「あの日、広島市内にいたことが知れたら、お嫁に行けなくなる」という噂がたち、恐ろしくなりました。自分の体験は絶対に言うまいと決意したのです。

 

被爆者自身が英語で語るから伝わるものがある

知花 そんな小倉さんが語り部として、自らの被爆体験を話すようになったのは、戦後50年以上たってからと聞いています。そこに至るまで、どのような経緯があったのでしょうか。
小倉 私はその後結婚して、子どもを育て、専業主婦として暮らしていたのです。日系二世の夫は広島市の海外担当として国連で市長の通訳をしたり、平和記念資料館の館長として世界の要人を案内したりしていたのですが、私が42歳のとき、病気で急死したのです。その後、海外の夫の知人たちに無理やり通訳にさせられました。
知花 小倉さんも英語が堪能だったんですか?
小倉 大学は英文科ですけれど、片言です。最初はお断りしたんですが、旧知の作家で、広島の著作でも有名なロベルト・ユンクさんに、「被爆者の悲しみをわかっているあなたがすべきだ」と言われて、仕方なく、お引き受けしました。最初は辞書を引き引きでしたけれど、被爆者の体験を通訳することが少しずつ増えていきました。中には原爆について、まったく知識のない外国人もいて、真実を伝えることの大切さを強く感じるようになったのです。それでもまだ自らについて語る決心はつきませんでした。自分の被爆体験は隠したまま、同じ被爆者につらい記憶を語ってもらっていることに罪悪感を覚えていましたね。
知花 では、語ろうと決意したきっかけは、何だったんでしょうか。
小倉 60歳前後だったと思います。日本で暮らすアメリカ人の高校生たちの通訳を担当したとき、「他人の話ではなく、自分の目で見たことを話してほしい」と言われたんですね。「でないと信じられない」と。やむをえず自分の体験を語り始めると、今まで退屈そうにしていた生徒たちが、食い入るように話を聞いてくれたんです。
このとき、被爆者が直接、英語で話すことの強みを感じました。一方的に話すのではダメで、同じグラウンドに立って話して、ディスカッションすることが大切なんだと。そこから自分自身について語るようになりました。

広島平和記念公園内に設置された「原爆死没者慰霊碑」。石碑の文字は「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」。2016年、米国の現職大統領として初めてバラク・オバマ氏がこの慰霊碑を訪れた

 

想像力を広げて、人の痛みや悲しみを感じ取ってください

知花 じつは私の祖父も小倉さんと同じように、長い間、戦争のトラウマを抱えて生きてきました。
小倉 知花さんは沖縄出身ですよね。おじいさまは、沖縄戦を体験していらっしゃるんですね。
知花 はい。ご存じのように第二次世界大戦末期、沖縄では連合国軍と日本軍の激しい地上戦が繰り広げられました。多くの民間人も亡くなり、軍民合わせて約20万人の犠牲者が出ました。でも、祖父は当時の話を何も話そうとしませんでした。初めて聞いたのは、私が25歳の頃です。報道番組の特集で、私が祖父に戦争の話を聞くという企画のオファーを受けたときでした。無理だろうと思いつつ、祖父に尋ねると「やる」と。戦後60年以上たって悲惨な記憶が薄れゆく中で、考えるところがあったようで、やっと話す気になったようでした。
小倉 広島でも両親から戦争の話を聞いた人はわりと少ないと思います。放射能の影響が怖くて、子どもにはなかなか話せないんです。語るには時間が必要なのか、むしろ祖父母から聞いたという人のほうが多いと思います。
知花 そうですね。祖父の体験もたいへんひどいものでした。祖父が暮らしていたのは、米軍が最初に上陸した島。住民たちは何も知らされないままに戦争が始まったそうです。そしてアメリカ兵につかまったら、男は捕虜になって辱めを受け、女は乱暴される……と学校で教えられていたので、つかまるくらいなら死んでしまおうと。小さな島の中でたくさんの集団自決が起きました。
小倉 家族が家族を手にかけるということもあったようですね。
知花 はい。当時は、みんなそれが最善の選択だと思っていたので、「早く首を絞めてくれ」「手りゅう弾でもいいから早く殺してくれ」と。そのような狂気の中で悲劇は起きました。祖父がずっと話せなかったのは、このとき家族を手にかけようとしたという体験があったから。それでも草で首を絞めきれず、姉や妹は生き残ったという壮絶な過去がありました。普段は寡黙でとてもやさしい祖父が、生々しい記憶や罪の意識をずっと心の中に抱えてきたことを知って愕然としたのです。祖父を苦しめてきた戦争への怒りがふつふつとわいてきました。
小倉 本当ですね。一番わかってほしいのは、目に見えない傷なんです。海外には、私の話を聞いて、「でも、ケイコはどこにもケロイドがないじゃないか」という方もいらっしゃいます。でも、目に見える大きな傷はなくても、戦争で受けた心の傷は、一人ひとりの胸の中にある。だからこそ、私たちは、戦争の持つ醜さというものを伝えていかなければならないと思います。
知花 おっしゃるとおりです。祖父の世代の人たちの心には、ガラスの破片が刺さったままなんです。特に沖縄の人には、言葉を選ばずに言えば、「捨て駒にされた」という感覚が強い。いまだにくすぶった思いがあるというのも事実です。沖縄では戦争教育を通じて、若い世代にも伝わっていますけれど、戦争経験者を祖父母に持つ私たち世代が幅広く伝えていかなければならない、と祖父を通じて強く感じました。小倉さんのように語り部はできませんが、私は短歌を詠んでいるので、自分なりの表現方法を使って、祖父の思いを少しでも残していきたいと思っています。
小倉 「伝える」というのはとても根気がいる作業です。核廃絶運動など遅々として進まず、被爆者の怒りや悲しみが全然伝わっていないと感じることもあります。それでも、若い人たちには、「こんなことがあったんだ。かわいそうね」「たいへんだったね」で終わってほしくない。ぜひ行動を起こしてほしいと思います。
その原動力となるのは想像力です。たとえば平和記念資料館に展示されている真っ黒に焼けただれたお弁当箱を見て、「これを持っていた人はどんな人かな」「お母さんが子どものために作ったのかな」と想像力を広げる。その豊かな感性があれば、息子は生きて帰ることなく、真っ黒な弁当箱だけが手もとに戻ってきたときの母親の悲しみや痛みが感じ取れると思うんですね。
知花 私も想像力は大切だと感じています。祖父の話を聞いたとき、「つらい記憶だろうけれど、それがあったから、じいちゃんは今生きていてくれてるわけだし」と伝えると、「そうだね。だからくららも今、ここにいるんだよ」って祖父が泣き崩れたんですね。そのとき、私たちの存在自体が、戦争を生き抜いた人たちがいたことの証しなんだと思ったんです。その思いの上に、私たちは命を授かって、生きているんだなと考えるようになりました。
小倉 いいお話ですね。今日は沖縄をとても身近に感じました。それは「知花さんのおじいさま」の話だからです。家族の話には、本に書いてある話よりもずっと説得力がある。戦争を生きたという、本物の現場感の重みがあるんですね。今日は得難い体験をしました。ありがとうございました。
知花 こちらこそ、貴重なお話をありがとうございました。少しずつですが、私にできることをやっていけたらと思っています。

 

被爆建物として残されている「旧広島陸軍被服支廠」。爆心地から2.67㎞にあり、爆風で屋根や鉄扉に損傷を受けたが火災は免れた。すぐそばにはコンビニもあり、現在と過去が交差する広島の町を象徴する風景だ

interview & text: Hiromi Sato photography: Hiroko Doune

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