最強なふたりが揃えば怖いもの知らず。
[大野君]昼休みの空色を映した水色のニットポロが大野君のさわやかな横顔にマッチする。
[杉山君]寒い冬でも外で遊ぶやんちゃな杉山君は、上質なナイロンのブルゾンがお気に入り。
[大野君]中に着たハイネックニット¥96,000・ニットポロ¥120,000・ショートパンツ¥105,000・[杉山君]ブルゾン(仕様変更あり)¥197,000・ハイネックニット¥90,000・ショートパンツ¥114,000(すべて予定価格)/プラダ クライアントサービス(プラダ)
特別書き下ろしエッセイ①
ももこさんとのこと
文・柳原陽一郎
1995年、ぼくは「たま」を辞めることにした。脱退を発表したすぐあと、高円寺のライブハウスに出演した。脱退発表の直後のせいか大勢のお客さんが待ち構えていた。自分の約10センチ前の総立ちのお客さんと向かい合う。泣いている人、ずっとうつむいている人、怒っている人、人、人、人……。そして「さくらももこ」もそこにいた。ももこさんには楽屋へ避難してもらったが、ライブ中は舞台袖でずっと演奏を見ていた。ライブが終わり楽屋へ戻ると、数人のファンが乱入してくる。
「バンド辞めてどうするんですかっ!」って詰め寄られて、そこは楽屋ではなくもはや修羅場。ももこさんは「やなちゃんも大変だよ」って、ポツリとつぶやいていたけれど、あの状況をクールに観察していたような気がする。大勢の人に「たま」脱退を残念がられたり、責められたりもしたのだけれど、それに関してはももこさんは何も言わなかった。ただぼくのソロシングルについて「いろいろと人は言うけどさ、あたしはいいと思うよ」と言っていたと、あとから人づてに聞いた。とてもうれしかった。
それから約20年……。その間、ももこさんとは連絡を取り合ってはいなかったが、2014年1月、突然ぼくに仕事をお願いしたいという連絡がきた。久々に会ってみると、ももこさんは信用金庫の地味なおねえさんから小ぎれいなスナックのママみたいな感じになっていたが、「ありゃあ、ほんとに久しぶりだよお」っていう、あの落語のおかみさんみたいな口ぶりは変わっていなかった。話を聞いてみたところ、自ら作詞した歌でCDを作りたい、そして何らかの形でぼくに参加してほしいとのことだった。その詞は女性を主人公にしたオーソドックスなもので、いわゆる職業作詞家が書くような詞だった。それがぼくにはとても意外だったが、この頃からももこさんは作詞家として歌の仕事にもっと関わっていきたいと強く思っていたようだ(この企画はそれから4年後『One Week』というアルバムの形で実を結ぶ)。食事を終えて、ももこ邸のバーカウンターのある部屋で久しぶりに一緒に酒を飲む。ももこさんは上機嫌でカラオケを歌う。「さくらももこ」の生歌を聴くのはそのときが初めてだったのでやや身構えたが、その歌声はしゃがれたハスキーボイス、まさに場末のスナックのママ。よく言えばマリアンヌ・フェイスフル、正しく言えば中村玉緒が歌っているような「オゾンのダンス」という歌を聴きながら、酔いのスピードは加速していった。
最後にももこさんに会ったのは2016年3月23日。「体調を崩していたんだけど、だんだん上向きになっているんだよね」って、すごく調子がよさそうだった。すでにたばこもお酒もやめてバリバリの健康志向、おいしい煮魚やきりたんぽ鍋を自ら作ってはごちそうしてくれた。メールでのやりとりはあったものの、それがももこさんと会う最後になってしまった。
帰り際に「最近、俺こんなことやってんだよ」って、ももこさんに自分のCDを渡した。すぐにメールがきた。「会えてうれしかったです。早速アルバム聴いたよ~! 私の思っていたやなちゃんは健在でした。含みが多くて豊か、おおらかでユーモラスなのに大真面目、これだこれだ、やなちゃんはこれだって感じ(笑)、また遊びに来てね~!」と書いてあった。「これだこれだ」ってのが、ももこさんらしい。一生懸命頑張っていれば誰かが認めてくれるなんてことを、もはや素直には信じられない自分になってしまったけれど、ももこさんのこのメッセージは忘れないような気がする。なんだ、「さくらももこ」はやっぱり人を勇気づける人だったんじゃないか。「今さら気づくなんて、やなちゃんはやっぱりうかつだよ~」って、あのハスキーボイスがまた聞こえてくる。
やなぎはら よういちろう●1990年にバンド「たま」のメンバーとしてメジャーデビュー。'95年にソロ活動を開始。歌作りとライブを活動の主軸としつつ、ジャンルを問わないセッションも行う。心の機微をファンタジーや言葉遊びに託した歌詞や、哀愁漂うボーカルが魅力。2018年12月にアルバム『小唄三昧』を発表。