時代が変化を求めても、エルメスは変化を拒む。永遠に変わらないこと、それが彼らの最大の武器なのだ。世にも稀有なメゾンを支える7人のクリエーターが語る、その魅力と知られざる裏側
創業から約200年、エルメスがこだわり続けてきた象徴的な“手しごと”があるとするなら、それはサドルステッチだ。バレエの動きのように緻密で複雑な、手縫いの技術である。
ステッチはこんなふうに行われる。職人は年の頃35歳前後。まだ若いが、長年この作業台で培った経験からくる自信をみなぎらせている。彼女の視線は、外表に合わせた2枚の小さなレザーに集中している。右手と左手の両方には5センチの針。針穴には蜜蠟(みつろう)にくぐらせて防水処理をした麻糸が通してある。手術用の器具を扱うかのように、彼女は巧みに2本の針をレザーの表と裏から刺し、糸をピンと引く。こうして糸をきっちり交差させると、ほつれにくい丈夫な縫い目ができ上がるのだ。
エルメスでは、ブルー・サフィール(サファイア・ブルー色)のバーキンにも、キャラメル色の馬具にも、ブレザーの肩にあしらうグレイッシュグリーンのスエードにも(全16のアトリエのうち、どこに所属するかで扱うアイテムが変わるが)、同じサドルステッチを施す。彼女は、交響曲のクライマックスに響くシンバルのように、リズミカルに両手を動かし続けている。遠い昔、馬具職人だったティエリ・エルメスがドイツからパリへ渡り、1837年に設立した工房で貴族向けに作っていた馬具にも、このステッチが施されていた。つまり、それ以来、この手しごとは何も変わっていないということになる。
エルメスでは、ハンドバッグもジャケットも、ブリーフケースも椅子も、ロゴが目立つようなデザインはしない(Hロゴがついたアクセサリーがいくつかあるが、社員の多くは内心、この手のブランディングにやや懐疑的だ)。製作は最初から最後まですべて職人が手がける。接着はもちろん、やさしく磨きをかけたり、極細の筆を器用に動かして縁を塗ったり、小さな金槌で金具をたたいて完璧な位置にしっかり固定させたりする。製作には何日もかかり、大型のもの、たとえば鞍であれば何週間も必要になる。鞍のアトリエがあるのは、パリ8区のフォーブル・サントノーレ通りだ。
ティエリ・エルメスのひとり息子、シャルル・エルメスが1880年に跡を継ぎ、移転した先がこの建物の最上階だった。今はその階下にブティックがある。手間をかけて作られるエルメスの製品は非のうちどころがなく、市販されている同種のどの商品より高価だ(さらに究極の贅沢品である、スペシャルオーダー専用のアトリエもある)。完璧ながらも、製品一点ずつわずかな違いがあるのは、それぞれがたったひとりの職人の手で作られているから。
「ここではある職人が縫製、別の職人が金具の装着といった分業を考えたことはありません」とセリーヌ・ロシュローは説明する。彼女はフランスのバッグのアトリエと、世界各地の工房で30年間働いていたが、現在は訪問者のためにアトリエを案内する役を務めている。こうして上海やソウル、サンフランシスコに住む客が、開閉口の調整やしみ抜きが必要になったとき、きちんと対処できるのだ。「ひとつの製品には最初から最後まで製作を手がけた、職人の“手の痕跡” が残っています。いわば職人の作品ですね」(エルメスが愛される理由)
SOURCE:「The Defiant Ones」By T JAPAN The New York Times Style Magazine:JAPAN BY NANCY HASS, PHOTOGRAPHS BY OLIVER METZGER, TRANSLATED BY JUNKO HIGASHINO APRIL 12, 2019
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