2019.07.20

【平野紗季子のスイーツタイムトラベル 第9回】1952年の月餅

おやつをめぐる記憶にまつわる、エッセイ連載

お菓子は甘い総合芸術。味に意匠に文化に歴史。だからこそ、たったの一口で時空を巻き戻すことすらできるのだ。昔の味も未来の味も、自由自在の時間旅行記。

 東急東横線に乗るたびに「このまま乗り続けていればプルプルの豚足そば(徳記)に、ほわほわのマーラーカオ(聚楽)に会えるのに」と思ってしまうから途中下車がしんどい。元町・中華街駅から地上に出れば、豪華絢爛な牌はい楼ろうの向こうにせいろの湯気と中華提灯がぼんやり輝く麗しの異界、チャイナタウンが広がっているのだ。いやいやチャイナタウンなんてあれでしょ、冷凍点心と料理の鉄人風の等身大パネルと激安食べ放題の看板が並ぶ胡散臭い観光地でしょう、と思っていたこともあったけど、せり出す看板群の合間に佇む控えめな個人店の一つひとつに、手作りの心意気と小さな歴史が息づいていることを知って以来、好きになった。中華街におけるいい店は見た目の地味さに比例する。

 真紅の看板に手書きの値札が連なる紅こう棉めんは1952年創業、広東省出身の譚さん一家によって営まれる老舗のお菓子屋さん。手作りの中国菓子が並ぶショーケースは尊さのあまり発光して見える。特に月餅は店の代表選手で、型押し模様がキリリと浮かび上がる「豆沙大月餅」は、月というより金印の如き荘厳なオーラを放ち、ついこうべを垂れたくなる。ありがたや……。そう呟きながらナイフを入れればベンタブラックばりの漆黒が。吸い込まれそうな自家製餡がぎっしり詰まった断面にかぶりつけば、ねっとりとしたあんこが黒胡麻の香りとともに広がって、現実に踏みとどまることなどもう不可能。口から異国に染まるパワーに翻弄され、これが広東菓子の魔力なのか……と白目を剝きそうなティータイム。

紅棉
●神奈川県横浜市中区山下町190
☎045-651-2210
営業時間 10時~20時 無休
自家製黒餡の大月餅「豆沙大月餅」(¥520)のほかエッグタルトやマンゴープリンも人気メニュー

PROFILE
ひらの さきこ●1991年生まれのフードエッセイスト。著書に『生まれた時からアルデンテ』(平凡社)がある。instagram:@sakikohirano

SOURCE:SPUR 2019年3月号「スイーツタイムトラベル」
photography:Masaya Takagi styling:Keiko Hudson

FEATURE