乗馬の世界にルーツを持つサヴォワールフェール(職人技)と豊かな創造力により、創業以来、独自のスタイルを刷新し続けてきたエルメス。歴史的なメゾンが生み出す精巧なオブジェ(製品)は、長く大切に使い込まれ、ときに修理を施しながら、世代を超えて受け継がれるものとしてつくられている。そう、エルメスのものづくりの哲学には、はじめから「サステイナビリティ」が組み込まれているのだ。ここでは、メゾンをかたちづくる16のメチエ(製品部門)のうち、中心的存在ともいえる皮革部門にフォーカス。真に持続可能な手仕事の文化に触れてみたい。
「人」を核としたものづくりが、地域再生に貢献
うっとりするような曲線が生み出す建築的なフォルム、ミリ単位で設計されたハンドルに、思わず触れたくなるしなやかなライニング。知識と根気強さに裏打ちされた手仕事の賜物であるエルメスのレザープロダクトは、オブジェであると同時に芸術作品でもある。伝統に忠実でありながらも常に新しくあり続けるために、日々切磋琢磨を繰り返し、用と美を兼ね備えたオブジェをつくり出す。それが、エルメスの皮革部門の職人たちだ。1837年の創業以来、エルメス社は毎年職人を育成し、他のメゾンの追随を許さない卓越したものづくりを発展させてきた。
ものづくりに関わるすべての「人」を大切にする。この価値観を守り続けてきたエルメスは、現在世界中に約18,400人の従業員を擁している。*そのうち、職人が占める割合は3分の1以上。代々受け継がれてきた生産体制により、全製品の8割が社内もしくは独占契約を結んだアトリエでつくられている。なかでもレザープロダクトは、フランス国内の20余りのアトリエで製造されており、およそ4,000人の職人が携わっている。つまり単純計算すると、エルメスに在籍する職人の7割近くが皮革職人ということになる。この数字だけを見ても、レザーがいかにメゾンのものづくりの中核をなすものかがわかるだろう。
*2022年6月30日時点
エルメスの皮革アトリエは特定の地域に集中しているのではなく、フランス全土に点在している。地方に積極的に進出している理由は、地域社会を活性化させるという目的があるからだ。1989年にリヨン近郊のピエール=べニットに開設したアトリエを皮切りに、ここ30年間で人口流出が深刻な地域にいくつものアトリエを開設し、安定した雇用を生み出してきた。2010年以降は毎年平均1ヵ所の皮革アトリエが新たにつくられており、メチエの成長を支えている。
経歴を問わず、才能ある者に門戸を開き、研修過程でノウハウや資質を育成するのがメゾンの流儀。毎年皮革職人を200人以上採用するなかで、2017年より始まったインクルーシビティを促進する取り組みの結果として、障がいのある人の雇用率も年々増え続けている。こうして地域との絆を強めながら、揺るぎないサヴォワールフェールを守り継承していくことに力を注いでいる。
美の中で、美をつくる。ウェルビーイングを核とした職場環境
「美しい製品を作るには、美しい環境で仕事をするべき」これを信条に、エルメスは社員にとって居心地のよい職場環境を整えることにも妥協しない。特に精密さと集中力が求められる職人たちのワークスペースには、人間工学的に細心の注意が払われている。
例えば、1992年に開設されたパンタンのアトリエはピラミッド型の建築が特徴的で、職人の手仕事に欠かせない自然光がたっぷりと入るように設計されている。内装を担当したのは、銀座メゾンエルメスをはじめ、世界中のエルメスのブティックデザインを手がけてきた建築事務所、RDAI(レナ・デュマ・アルシテクチュール・アンテリユール)。2013年に増設され、5つの庭園でつながった明るく開放的なアトリエ群は、フランスの建築賞である「エケールダルジャン(銀の定規)賞」を受賞した。その土地に根差し、自然と調和しながら、社員ひとりひとりに健康と幸福をもたらすための最適なデザインがなされているのだ。
もちろん、ウェルビーイングの視点に加えて、環境基準を遵守することもアトリエでは最優先課題。エルメスは2019年に、ファッション産業の環境負荷軽減に向けた国際的な枠組みである「ファッション協定」に加盟した。気候変動、生物多様性、海洋保護の3分野で共通の目標に向かって取り組むべく、フランス国内すべてのアトリエにおいて水やエネルギーなど天然資源の消費を厳格に最適化しているほか、温室効果ガス排出量の削減にも努めている。2023年に新たに開設されるルーヴィエの皮革アトリエの建築には、自然と一体化するようにレンガと木材のみを使用。消費するエネルギーよりも生産するエネルギーが多くなるように設計されており、地域社会に長く愛される持続可能な施設づくりが魅力だ。
ひとりが、ひとつのバッグ。職人の刻印が何よりのトレーサビリティに
機能、品質、耐久性のバランスが完璧に整ったとき、そのオブジェには初めてメゾンの刻印が打たれる。エルメスの皮革職人は入社後に18ヵ月の研修を受け、メンターによるマンツーマンの指導のもと、メゾンのエスプリや技術を身につけていく。そして無事に研修を終えたとき、完璧な仕事ができる証として、職人ひとりひとりに自分だけの刻印が与えられるのだ。
未来の職人たちの実習は、「ケリー」バッグからスタートする。なぜなら、40点余りのレザーピースを必要とする「ケリー」こそが、エルメスではもっとも多くの技術とノウハウが必要とされるバッグだから。ひとりの職人が、革の裁断からクラスプの取り付けに至るまでのすべての工程をたったひとりで行い、ひとつのバッグを完成させる。そして作り手の署名(イニシャル)が刻印された瞬間、そのオブジェには職人の魂の一部が宿る。これに勝るトレーサビリティの手段が、ほかにあるだろうか。
バッグ製作の一連のプロセスのなかで、もっとも重要な部分といわれるのが革の裁断。革の斑点やシワを注意深く見極めながら、それぞれのピースを取るための最適な場所を選んでいく。そこで職人たちに求められるのは、革を「読む」力だ。大切な素材を余すところなく活用し、バッグの表面に見合わない部分は、補強用の芯地として使う。小さな切れ端も廃棄せず、独自のクリエイティビティで「プティ アッシュ」の製品として生まれ変わらせる。サステイナビリティという言葉が注目されるずっと前から、エルメスの職人たちはものづくりの中にアップサイクルの概念を取り入れてきた。
修理し、循環させる。一生もののオブジェ
「ラグジュアリーとは、修理が利くもの」これは、エルメスの4代目代表、ロベール・デュマの言葉だ。時を経ることで、より美しくなるようにつくられているエルメスのオブジェは、すべて修理や修復、メンテナンスができる。バッグのハンドルやカデナの交換、革の色付けや磨き直し、ステッチの補修、擦り傷のぼかしなど、さまざまな工夫を凝らしてオブジェに息を吹き返らせるのが、修理アトリエの職人たち。それぞれのオブジェに的確な手当てを施すためには、経験はもちろん、創造性や決断力が求められる。
エルメスの修理アトリエは世界各地に15ヵ所存在するが、そこに持ち込まれるオブジェは年間なんと10万点以上。日本国内にも修理アトリエが2ヵ所あり、現在12人の熟練の職人が在籍している。2021年に大阪のヒルトンプラザ内にオープンした「エルメス アフターセールスカウンター」は、メゾン初となる修理やケアサービスに特化した店舗だ。傷や劣化が気になるアイテムを持って行けば、知識豊富な専門スタッフが丁寧に相談に応じてくれる。
この女性は、東京の修理アトリエで働く皮革職人。とはいっても、実際のアトリエで撮影したわけではない。2022年11月に京都市京セラ美術館で開催された、メゾンの各メチエを代表する職人たちの手仕事に触れられる展覧会「エルメス・イン・ザ・メイキング」でのデモンストレーションの様子だ。このとき彼女は、カードケースのベルトの修理を観覧者に披露してくれた。
300度にも達する高温のコテを使って革の断面をなめらかにしたあと、やすりをかけて断面の形を丁寧に整えていく。ただ平らにするのではなく、絶妙な丸みを帯びた蒲鉾型に。自身の手の感覚だけを頼りに、慎重にやすりをかけては形を確認する。この緻密な作業を根気よく何度も繰り返し、静かに黙々と作業を進めていく。エルメスの職人歴18年という彼女の繊細な指使いと真剣な眼差しに、その場に居合わせた全員が釘付けになった。
ところで、エルメスが年に2回発行している機関誌『エルメスの世界』の2022年秋冬号には、こんな“こぼれ話”が記されている。
ケリーバッグのなかに見つけたメッセージ「修理アトリエの皆さま、孫娘の誕生を機にまた生まれ変わらせてください」。これまでに2つのケリーを愛用したお客さまは、もうすぐ3つめのケリーを手にされるだろう。じつに由緒正しいバッグである。
「時」とともに味わい深い風合いへと変化していくエルメスのレザーのオブジェは、持ち主が共に歩んできた時間の旅をも映し出す。何十年、否、100年以上の月日を経て、愛情と思い出の詰まったかけがえのない存在となる。修理アトリエの職人が施すのは、ただ美しく生まれ変わらせるための“修理”ではない。そのオブジェだけが持つ物語を引き続き刻むことができるようにするための「魔法の手当て」なのだ。揺るぎないサヴォワールフェールも、精巧なつくりのオブジェも、世代を超えて受け継がれてゆく。この継承の哲学こそが、エルメスというメゾンの真髄だ。