2023年10月に始まった、パレスチナ自治区ガザ地区におけるハマスとイスラエルの戦争からまもなく1年。2024年10月4日より、和平と共存を訴えるガザ地区出身の医師、イゼルディン・アブラエーシュ博士の人生を追ったドキュメンタリー映画『私は憎まない』 が全国順次ロードショーされる。3人の娘たちがイスラエル軍に殺害される悲劇に見舞われても、報復ではなく対話を呼びかけ、分断の架け橋になることを誓った博士の言葉に、今こそ耳を傾けたい。
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2007年のイスラム組織ハマスによる武力制圧以降、イスラエルの本格的な封鎖政策が続き、「天井のない監獄」と呼ばれるほど悲惨な状況に置かれているガザ地区。人やモノの移動が厳しく制限され、食糧品や燃料、医薬品などが恒常的に不足し、経済的孤立状態にあるガザの住民たちは、今起きている戦争が始まるよりもずっと前から深刻な生活困難に直面してきた。
そんな中、医療でイスラエルとパレスチナの分断の架け橋になろうと奔走し続けてきたのが、アブラエーシュ博士だ。ガザ地区のジャバリア難民キャンプ出身の彼は、貧しい家族を支えながらも勉強に励み、ハーバード大学公衆衛生大学院で修士号を取得。イスラエルの病院で働く初のパレスチナ人医師となった。
イスラエルで働く許可証を持つガザ住民は、ほんのひと握りしかいない。彼は週に2度、ガザ地区北部のエレツ検問所を通り、いつ閉ざされるか知れない国境を越え、ガザに住みながらイスラエルの病院に通った。産婦人科医としてパレスチナとイスラエル両国の患者と向き合う中で、「病院ではすべての命が平等であるように、外の世界でも人びとは平等であるべき」と確信する。医師は平和の大使であるという強い信念のもと、多くの命を救うべく尽力してきた。
憎しみは有害な病
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医療の力を通じて両者の共存を望んできたアブラエーシュ博士に、試練が立て続けに起こる。2008年12月、妻のナディアさんが急性白血病で他界した。診断されてから亡くなるまで、わずか2週間だった。愛する人の死という衝撃に打ちのめされながらも、残された8人の子供たちと助け合い、前向きに生きていこうと博士は心に誓う。ちょうどトロント大学から仕事のオファーがあり、家族で話し合ってカナダへの移住を決意した、そんな矢先にさらなる悲劇が彼を襲った。
ハマスによるイスラエルへのロケット攻撃が激化したことで、イスラエル軍によるガザへの攻撃が続いていた2009年1月16日、博士の自宅がイスラエル軍の戦車の砲撃を受け、3人の娘と姪が目の前で殺害された。当時、イスラエルのテレビ局のニュースキャスターを務めていたジャーナリストのシュロミ・エルダーさんと懇意にしていた博士は、砲撃直後にテレビ局にいる彼に電話をかけた。エルダーさんは番組の収録中にもかかわらず、博士の電話を取る。彼の数分間の悲痛な叫びはイスラエル全国に生放送され、YouTubeなどを通じて瞬く間に世界を駆けめぐった。
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砲撃の翌日、博士がテレビカメラの前で語ったのは、憎しみではなく和平と共存についてだった。大切な娘たちの命が奪われてしまった数時間後に、どうして対話の重要性を訴えることができたのか。これほど残酷な仕打ちをされてもなお、どうして相手を憎まずにいられるのか。映画の作中で、博士は涙ながらにこう語る。
「人びとは私たちが倒れ込み、壊れて、憎しみに溺れると思ったことでしょう。ですが、憎しみは有害な病です。おまけに伝染もします。人は誰も、憎しみを抱いて生まれてはきません。憎しみは、触れることで育つものなのです。憎しみを防ぐには、憎むきっかけを知ることです。貧困、暴力、人種差別、偏見、優位性、搾取、植民地化、占領……それらは健康に大きな影響を与えます。パレスチナ人とイスラエル人は平等な市民として共存するしか道はない。私たちはそう声を上げるべきです」
争いをこれ以上長引かせないために
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アブラエーシュ博士の涙の叫びから2日後の1月18日、ハマスとイスラエルの暫定的な停戦協定が結ばれた。それはあまりに遅すぎる停戦だった。博士はその後、娘たちの死の責任を追及するべくイスラエル政府を告訴。最高裁まで争ったが、政府からの正式な謝罪は一度もないまま今に至る。それでも、博士の和平への信頼は決して揺るがない。
彼の赦しと和解の精神は、世界中の人びとの心を揺さぶった。人道的活動を対象とした賞を数多く受賞し、ノーベル平和賞候補にも5度ノミネートされた。2010年に出版された自伝『I Shall Not Hate(邦題:それでも、私は憎まない)』は国際的ベストセラーとなり、日本を含む世界20ヵ国以上で翻訳されている。
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身近な人、大切な人を一瞬で奪う戦争。今のガザでは、そんな悲劇が日常になってしまおうとしている。ガザ保健当局は、2023年10月7日の戦闘開始以来、4万人を超えるパレスチナ人が犠牲になったと発表した(2024年8月中旬時点)。博士はこの約1年で40人もの親族を失ったという。しかしどんなに絶望的な状況でも、博士は強く訴える。「今こそ私たちが、ともに責任ある行動を起こす時。恐れ、暴力、不正義という病気を、自由、正義、希望、平等そして平和に置き換えるべきです」
罪のない人びとが、何万人というおびただしい「数」に置き換えられ、尊厳も命も奪われている。その現実から私たちは目を背けてはならない。一刻も早い停戦を。継続的な和平を推し進める力が今すぐに必要だ。
映画の劇場公開に合わせて、博士の緊急来日が決定 した。アップリンク吉祥寺をはじめ、都内数ヵ所で上映トークイベントが予定されている。「悲劇を必ずプラスに変えてみせる」博士の一貫したメッセージを通じて、命と平和の重みを今一度考えたい。
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