固定観念からの脱却が生んだ新しいフォルムのレオタード
2016年のリオデジャネイロ大会からオリンピックに2大会連続出場した、体操元日本代表選手の杉原愛子さん。彼女がプロデュースしたスパッツ型レオタード〝アイタード〟は自身の名前から名付けられた。製作は、杉原さんが代表を務める会社「TRyAS(トライアス)」のスタッフが練習中に放った素朴な疑問がきっかけだったと話す。
「『普段はレオタードの上にスパッツをはいて練習しているのに、なんでそのまま試合に出たらダメなの?』と言われたんです。正直、4歳から体操の世界にいる私には思いつかない発想でした」
女子体操界では、長年、ハイレグ型のレオタードが主流だった。しかし、2021年の東京五輪でドイツ人選手が性的な視点で見られることへの抗議の意味を込め、足首まで隠れる「ユニタード」を着用して出場、大きな話題を呼んだ。「新鮮で驚いたのと同時に、自分の視野の狭さに気づきました。ハイレグのレオタードが当たり前で、ほかの選択肢はないと思い込んでいましたね。あのレオタードを見たときは、こんな新しい発想もありなんだ、と思いましたが、実際に着用することはなかったです。鼠蹊部の際どさもなく、生理のときにナプキンがはみ出ないので安心感があっていいなとは思ったのですが、素足で練習しているときとロングスパッツを着用しているときでは技の感覚がまったく違ってくるんです。脚を抱えこむ技で、もし滑ってしまったらと考えると怖かった。あと、手足の長いヨーロッパの選手と体格の異なる日本人選手が着ても同じように似合うのかという不安材料もありました」
海外では少しずつ選手の心理的安全を確保するための先進的な取り組みがあったものの、技の美しさを競う競技ということもあり、日本の選手の間では浸透しなかった。「アイタードは、通常のレオタードの脚のつけ根部分に短いスパッツを足したシルエットで、鼠蹊部の露出が抑えられています。公式試合でも着用ができるように国際体操連盟が定めた規定に則り、レオタード製作会社のオリンストーンさんとともに製作を進めました。『肩甲骨の下部や鎖骨の半分以上が見えてはいけない』『股下は2㎝以上長いといけない』などの細かな項目もクリアしています。初めて試合で着るときは、問題がないか、審判長に衣装を確認していただきました。目指したのは、ハイレグじゃなくても脚が長くきれいに見えるバランス。生地の切り返しをシャープに設定したり、腰の位置が高く見えるラインのデザインを入れるなど工夫を凝らしています。『露出が減る分脚が短く見えるのでは』、と思われるのですが、着てみるとあまり遜色はありません。日本の女子体操選手は、日頃からレオタードの上にスパッツを重ねて練習することが多いため、アイタードなら普段と変わらない着心地で試合に臨むことができます」
女子体操選手の新たな選択肢として普及させたい
一昨年の12月から販売が始まり、トップアスリートからジュニア選手、体操クラブに通う子どもたちのもとにまで、着々と浸透している。
「2024年の国体には、大阪代表少年・成年女子の団体メンバーが着用して出場しました。小学生のトランポリンの選手が、レオタードが嫌で大会出場を拒んでいたけれど、アイタードを着用して出場できたという話も伺いました。生理のときもナプキンが見える心配がなくなって、安心してはけると言われたこともあります。こういう反応があると本当にうれしい。着用者の意見は常にヒアリングしていて、今は、オリンストーンさんと一から新デザインのアイタードを企画中です。スパッツ部分にも平均台で擦れない生地を使うなど実際に使用した競技者からの改善点も挙がっています。まだまだアップデートできるところがあるので、新作も楽しみにしていてほしいですね」
スタート地点は「選手が試合でも練習と同じように競技に集中できるウェアを」だったが、着用者以外の人からもポジティブな意見が届いている。
「審判の女性から平均台での開脚技の際にアイタードなら心配にならないと言っていただいたり、体操を習わせている子どもの親御さんが思春期になったときにアイタードなら安心して競技を続けさせられると話してくれたり。自分では当たり前だと思っていた衣装も、工夫を凝らすことでアスリートやその周りの誰かの安心につなげることができると知りました。社会に貢献できている実感があります」
現在、スポーツ界ではユニフォームなどの競技ウェア姿を性的な視点で撮影し、それらの画像や映像がインターネット上で拡散される盗撮被害が深刻な問題になっている。悪意のある撮影者とファンとの判別が難しく、撮影を規制する法整備が整いにくい現状がある。もちろん体操界も例外ではない。日本体操協会は2004年から原則として観客の撮影を禁止し、会場スタッフが巡回してトラブル防止に努めている。
「長年体操ファンの男性から純粋に競技を楽しんでいても、公言しにくい雰囲気になっていると聞き、衝撃を受けました。私もSNS上で、衣装による体の見え方について心ない書き込みをされたことがあります。人それぞれ価値観が違うから捉え方については仕方がないと思いつつ、競技者、それを応援する人が衣装によって嫌な思いをすることを減らしていきたい。ただ、悪質な盗撮を防ぐことを優先して、オフィシャル撮影以外を禁止にしていたことで、体操競技の普及に歯止めがかかってしまった面もあると思っていて。厳しい制約は選手を守る一方で、競技の魅力発信の妨げになるというジレンマも。本来、身体の美しさやしなやかさを魅せる競技でもあるのでこの現状は本当に悲しいです。今は撮影の許可申請を行い、管理することで少しずつファン層の拡大を図る試みが行われています。もちろん、悪用目的で撮影をする人、悪用する人が減ることが一番の望みですが、安心して競技できる・応援できる環境作りのために競技者側も何ができるか考える必要があると思っています」
指導者や会社代表としても精力的に活動する中、一昨年は現役選手として復帰を果たした杉原さん。トップアスリートと会社代表の二つの顔を持つ彼女は自身の人生をかけて挑戦を続けている。
「現役を一度退き、学生を指導したり、解説を務めたり、幅広く活動したことで、選手以外の視点を持てました。それが自分にとって武器になり、アイタードの製作にもつながったと思います」
衣装はパフォーマンスだけでなく競技全体の発展にも関わっている
杉原さんを突き動かす一番の原動力は、〝体操をもっとメジャーなスポーツにしたい〟という強い想い。
「もちろん、オリンピックに出場すれば注目してもらえますが、野球やサッカーと比べると圧倒的に認知度が低く、国内大会はあまり知られていないのが現状。そこで、スポーツとエンターテインメントを融合したイベントやショーを開催しています。体操は床とスポットライトがあれば、十分見ごたえがあって面白い。いつかアイスショーのようにショーケースを作って継続的に行えるようにしたい。それにはファンを増やすことが大前提です。市場を広げるために、好きな競技を安心して続けられるレオタードの提供や、観客が周りの目を気にすることなく応援しやすい環境を整えることが必要だと考えています。今は周りの方々に助けていただき、階段を上っている途中ですが、体操競技の地位向上と、次世代の子どもたちへ魅力を発信していくにあたり、衣装は重要なファクター。これからも時代に合わせて進化させていきたいと思っています」