20世紀の色彩のマスターと称されるマティス。マティスの子孫が設立した「メゾン マティス」と、ゲランがこの春、タッグを組んだ。その出合いを祝福するパーティがこの2月、ポンピドゥーセンターで行われた。話題を集めたのが、マティスの名作「音楽」にインスパイアされた数量限定1ℓのビーボトル。シリアルナンバー付きだ。エクセプショナルピースとして、全世界で14点、日本では1点のみが発売される。アートピースの域に達した限定品を、アーティストや職人とともに創り出すことで、次世代の芸術家たちを讃えることにも、ゲランは成功している。
ゲランのアート・カルチャー・ヘリテージ ディレクターのアン・キャロライン・パラザンは、ゲランが継承する芸術への造詣についてこう語る。「香りと芸術は表裏一体」だと。
「初代からゲランの調香師たちはひらめきを得るために、芸術を愛し続けてきました。香りを創る職人というだけではなく、芸術家たちのパトロンでもあったのです。例えば、3代目のジャック・ゲランはモネやマネ、ピサロの収集家でした。オルセー美術館所蔵のモネの『カササギ』は、もともとは彼のアトリエに飾られていたんですよ」
最新のエクセプショナルピースである群青色のビーボトル。ミュージシャンが音色を軽やかに奏でるように、マティスの1939年の傑作「音楽」に着想源を得ながら、ボトルは青に緑に、そして黄色に染まった。マティスの作品において、音楽が重要な役割を成しているのは有名な話。リズムと調和、ジャズやダンス。幼少期からヴァイオリンを嗜み、旋律はクリエーションの大切なヒントとなった。
5代目調香師ティエリー・ワッサーもまた、香りを音楽にこう例える。「原料を選ぶのは、音符を選ぶのと同じです。それぞれの原料がステージに上がり、それぞれの配役を担い、新しいハーモニーが生まれる。ジャスミン ボヌールを表現するならば、香りの印象派と言えるでしょう」。調香師のボキャブラリーでもある「ノート」や「コード」が、音楽の専門用語であるのと同じように、マティスも「ビブラート」や「オーケストレーション」という言葉を多用して、絵を描いたという。
セーヌ川のポン・ヌフを渡った先にある、復活したばかりの老舗百貨店「サマリテーヌ」。その向かいが、ゲランの本社だ。メゾンの「鼻」、つまり調香師たちは、最上階にラボラトリーを構え、窓から広がる美しいパリの空を肩越しに、調香に勤しんでいる。
ゲランの調香師デルフィーヌ・ジェルクに会いに、ラボを訪ねた。5代目調香師ティエリー・ワッサーにより、8年前にメゾンに迎えられた気鋭の「鼻」だ。ワッサー氏は言う。「私は原料すなわちマティエールで、デルフィーヌがアートなのです」と。ふたりのハーモニーが、そのままゲランのラール エ ラ マティエールを形作っているというわけだ。
「ベルガモット、ローズ、トンカビーン、アイリス、バニラ、そしてジャスミン。(ゲランに伝わる独自香料の)ゲルリナーデを織りなすとともに、この6つはゲランにとって特別な原料です。シャリマーの時代から、6つのうち必ずいずれかは使われてきたのですから」
そう語るデルフィーヌにとっても、ジャスミンは特別な花。結婚式のブーケもジャスミンで紡いだ。
「ジャスミンに挑むのは容易ではありません。ジャスミンを主題にした香水を手掛けるのは初めてだったので、あえて初々しい印象を大切にしました。具体的には、ジャスミンのもつアニマリックやナルコティックな側面は排除して、ハッピーで色彩豊かで明朗な、ジャスミンの魅力を引き出したかった。同時に、ゲランに伝わる名作を伏線として、新しい“シック”を体現することも意識しました。それは、ミツコです。シプレの代名詞ミツコが運ぶ“シック”の、最新のかたちを探ろうと」
原料調達において、ゲランは決して妥協しない。最高峰の素材を求めて、世界中を駆け巡る。1828年に創業し、ほぼ2世紀に渡って香水の高みを牽引し続けてきたメゾンの矜持が、そこにあるからだ。ジャスミンは、3つの産地から選び抜いた。
「南イタリアに住んでいる友人から紹介されたカラブリアのジャスミン。とてもデリケートな点が気に入りました。このジャスミンのもつフルーティさは、大きなインスピレーションになりましたね。次に、インドのジャスミン。お酒のような芳香が魅力的です。そして、グラースのジャスミンサンバック。グリーンな輝きのあるジャスミンです」
ミツコはピーチの甘い風を吹き込み、フルーティなシプレという唯一無二の美学を生み出したことで知られるが、デルフィーヌもまた、クリーミィなアプリコットをファセットに加えることで、まろやかな光を呼び込んだ。そのほか、ジャムのような深みをもたらすキャロットシードやレザートーンのサフラン、インドネシアのパチュリで苔のようなベースノートを演出するなど、香りの色彩の調合という仕事に、粘り強く取り組んだ。香調設計に1年以上の時間を費やし、完成したのはアプリコットピンクのジュースの、快活なフルーティフローラルなフレグランスだ。
「ジャスミンを今までにはない領域に連れていく、そんな旅でした。ダークな地下のクラブではなく、暗くない場所……そう、自然光が降り注ぐ日中の香りを追い求めました。だって、マティスは南仏に住んでいて、ジャスミンに囲まれていたイメージですから」
さまざな色彩を駆使し、卓越した筆致を走らせ、美しいボトルを描き上げた調香師の表情は、きらきらと晴れやかだった。最後にデルフィーヌはこう締め括った。「調香師も、画家のようなものなのです」
世にも幸せなコラボレーションだと思う。巨匠の意匠を踏襲するのではなく、その真髄と美学を現代に置き換えて再解釈し、新しい命を吹き込んでいる点が、素晴らしい。そこには今を生きるアーティストの視座と尊い創造があって、そして名作への敬意がある。時代の試練に屈することなく、2世紀にもわたり孤高の美学を貫いてきたゲランだからこそ成しえた美しい化学反応、東京都美術館で大々的なマティス展が開催されている今こそ、ぜひその香りに触れてみてほしい。