フリーダは生きるために 衣服や装飾品が必要だった

朝吹 フリーダの遺品の中では、ほつれた部分をたくさんかがっている絹のストッキングの写真に惹かれました。絹は当時貴重だったから、何度もかがって大事にはいていたんだと思います。小説も刺しゅうのように言葉をかがっていくもの。このストッキングの写真はひとりの人が本当に生きていた痕跡と時間を実感します。

石内 彼女は自分で演出していた部分がたくさんあって、父親が写真家だから写真の重要性もわかっていた。なぜなら写真は残るもので、つまり未来なの。彼女の写真を見ると過剰に飾っている。たぶんそれは、生きるというひとつのあり方として、彼女には必要だった。要するに、彼女にはいろんなことが足りなくて、洋服や装飾品で補っていたんだと思います。私は靴や靴下や手袋が大好きで、遺品の中の靴は全部撮ってきました。

朝吹 義足にも目を見張ります。よほど好きだったんでしょうね。

石内 私が聞いた話では、彼女が脚を切断する手術をしたあと、病院か医者がちゃんとした義足を作ったのに、気に入ったデザインで特注した義足しかつけなかったみたいです。それができてからようやく歩き出したそう。身につけるものに強いこだわりが感じられます。私は入れ歯も好きだから、博物館側に撮らせてってお願いしたけれどダメって言われて、仕方なく諦めました。

朝吹 映像を見て面白かったのが、博物館の方々が遺品を恭しく扱っている中で、石内さんがいちばん親しそうにしていたところです。遺品に直に触れて出会いたいと思われますか?

石内 あまりないですね。触れることより撮るほうが大事。私は自分の思いどおりにセッティングするし、手持ちで撮りますから、自由に簡単に近づいたり離れたりできる。それは大きいです。

朝吹 そうなんですね! 私は昔、鉱物、特に雲母が大好きで、それに近づきたくて食べたりなめたりしていたら、舌先が二股に割れてしまったことがあるくらいで……。つまり、そうしないと好きな対象に近づけないと思っていましたが、石内さんの、写真で近づけるから、実際にさわるかどうかは関係ないという言葉に感動しました。

石内 私、暗室作業は好きだけど、撮影自体は苦手(笑)。撮影の現場の生々しいのが嫌いなの。だから撮るのはなるべく少なく早くがモットー。私にとって、写真として紙の上にプリントされる、そのときがモノとの最初の出会いなんです。でも紙の上の世界は、現物よりも生々しいかもしれません。現物は意外と寂しいものですよ。

女性が表現する難しさはフリーダの時代も今も同じ

朝吹 私は性別を意識することが少なく、女性が表現することの難しさという話になると、違和感を感じます。

石内 若い頃は私もそうだった。でも今は、自分が女性であることはひとつの資質だと思っています。ただ女性がどうやって生きていくかを考えたときに、フリーダを見ているとやはりすごく大変だったと思う。女性が自立するために肩に力を入れなければならない時代があって、それは今も変わっていないと思います。写真の世界も女性が増えてきましたが、社会性の意味からは変わっていません。ただ『ひろしま』は女性しか撮れない写真かなと、ちょっと思い始めています。私が着てもおかしくないワンピース、みたいな視点は男にはないだろうと思うので。でも、性差なんてどうでもいいんですよ。

朝吹 いまだに女流作家とかいわれるとびっくりします。そんなことより大事なのは、モノをつくるうえで死ぬ気でできるかどうかということです。

石内 結局、女であることを強要するのは社会なんです。つまり社会を作っている男たち。でもそれでめげなくていいし、どんどんやっていけばいい。

石内 都:写真家。1947年群馬県桐生市生まれ、横須賀市育ち。1979年第4回木村伊兵衛賞受賞。2008年写真集『ひろしま』(集英社)、2013年写真集『Frida by Ishiuchi』(RM、メキシコ)を発表。2014年ハッセルブラッド国際写真賞受賞。

朝吹真理子:作家。1984年東京都生まれ。2009年『流跡』(新潮文庫)でデビュー。2010年に同作で第20回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を最年少受賞。2011年『きことわ』(新潮文庫)で第144回芥川賞を受賞。現在『新潮』で「TIMELESS」を連載中。

SPUR2016年9月号掲載
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