被爆者とその家族の写真を撮る「被爆三世 これからの私たちは project」を続ける堂畝紘子さん。撮影を通じて時間を共有することが、原爆の記憶を次の世代へ受け渡す第一歩となる
Hiroko Doune
1982年、広島県生まれ。都内のスタジオで写真を学び、2000年「太平洋戦争の国内戦跡」撮影を始める。’13年、広島で「こはる写真館」を開業。’15年「被爆三世の家族写真」撮影・展示活動を開始。’16年「被爆三世 これからの私たちはproject」を立ち上げる。
撮影を通して、戦争が他人事から我がことになる瞬間がある
広島在住のカメラマン・堂畝紘子さんは、被爆三世の家族写真を撮り続けている。活動を始めて7年、約90組の家族をカメラに収めてきた。
「被爆者のおじいさん、おばあさんから、被爆二世、さらには三世、四世までの命のつながりを家族写真で表現したいという思いから、この活動を始めました。撮影するのは、ごく一般の家庭の方々。集まって撮影する中で、おじいさん、おばあさんが被爆体験をご家族にお話しされることもあります。友達がたくさん亡くなったけれど、自分だけが生き残ってしまったとか、逃げるときに死体を踏んで歩いたとか、初めて聞く話に驚くご家族もいらっしゃいます。
特に若い世代の人たちは、最初は『なんで家族写真なんて撮らなくちゃいけないの?』とふてくされていたりするのですが、話を聞くうちに表情が変わってくるんですね。無言になる人もいれば、泣き出す人もいるし、怒ったような表情になることもある。
そういう変化があるのは、今まで他人事だったものが、我がことに変わった瞬間なんだと思うんです。家族から直接話を聞くというのは、それだけインパクトがあるということ。もちろん家族だから言える話もあれば、家族だからこそ言えない話もある。人それぞれですが、可愛い孫やひ孫に尋ねられたら、みなさん、たいていはお話しになるんですよね」
「まずは何があったかを知らないと、考えることもできない。次につながっていかない」と堂畝さん。そういう意味で、家族写真を撮ることは、祖父母と時間や場を共有する、いい機会になると考えている。
「広島は平和教育が進んでいるとはいえ、若い人たちにとって、やはり戦争は遠い世界の話で、いきなり核廃絶運動の話をしても逆に拒否反応が出てしまう人たちもいる。ですから、この撮影を通して、身近なところから戦争について考え、次の世代の人たちが何かアクションを起こすきっかけを作れたらいいなと思っています」
原爆の記憶を次へつなげるかは、私たちの世代にかかっている
高校生の頃から8月6日に行われる平和記念式典のボランティアに参加するなど意識の高かった堂畝さん。そこで感じたのは、「平和活動は、誰が行なってもいいんだ」ということだった。
「式典の行われる平和記念公園内では、いろいろな方が自分の思いで活動をしていました。さまざまな展示物があり、紙芝居をしている人も。それまで平和運動は、戦争体験のある人や専門家など、特別な人が行うものだと思っていたのですが、私でもやっていいんだと感じました」
では、自分には何ができるのか――。悶々と考えながら月日は過ぎ、やっとたどりついたのが、この活動だった。「撮影を通して、家族の距離が縮まっていくのを見ると喜びを感じる」一方、難しさに悩むこともある。
「戦後、被爆者は差別を受けてきた時代があり、『被爆三世』という言葉に拒否反応を示す人は少なくありません。電話がかかってきて、『うちの子に被爆三世なんていうレッテルを貼らないで!』とお母さんから怒鳴られたこともありました。
また原爆でつらい体験をされた方から見たら、私の活動は“ぬるい”のかもしれません。『原爆ドームの前で、笑顔で写真を撮るとはどういうことだ!』とお叱りを受けたり、『怒りを撮れ、憎しみを撮れ』と言う方もいらっしゃいます。もちろんそれも広島を生きている人たちのひとつのリアルなので、そのまま受け止めるようにしています」
それでもこの活動を続けているのは、自分たちの世代が次へつないでいかなければならないと感じているからだ。
「被爆者たちは高齢になり、この先、どんどん少なくなっていきます。祖父母が被爆者である私たちが、その実体験を聞くことができる最後の世代です。原爆や戦争の記憶を受け継ぎ、次世代へつないでいくにはどうしたらいいのか――私たちにかかっていると思っています」
堂畝さんの作品から。
1 祖母(中央)を中心に、被爆二世、三世、四世が一堂に会した写真。原爆投下時、15歳で看護師見習いをしていた祖母は、帰宅途中に入市被爆(原爆投下直後に爆心地近くに入り、放射線の影響を受けること)。2016年11月原爆ドーム前にて撮影
2 孫、ひ孫との対面に相好を崩す祖父(左)。祖父は当時16歳で、爆心地から2.5㎞の国鉄学校宿舎で被爆した。’19年9月広島県庄原市にて撮影
3 ’11年に亡くなった祖母の遺影とともに立つ孫。当時16歳の祖母は動員先の工場で被爆した。’19年3月住吉橋前にて撮影
interview & text: Hiromi Sato photography: Hiroko Doune