2021.05.18

音の鳴る靴 ▶ 松井玲奈

オニツカタイガーの「デレシティ」。アーカイブスからテニスシューズのデザインを取り入れたアッパーと、1950年代のバスケットボールシューズの要素をモダンにミックスした逸品

 子供の頃、あたたかくなると新しい靴を買ってもらえた。新学期だからと、真新しい靴たちの前で悩む時間が好きだったように思う。靴屋さんはいつだって新品の匂いでいっぱいだった。
 高校生になると足元は運動靴からローファーへと移り替わっていった。
 買ってもらったローファーに初めて足を入れた時、シュッと音が鳴ったことを今でも覚えている。学生時代に見た映画の中で「ぴったりの靴を履くと音が鳴る」と言っていたが本当にその通りだった。靴の中の空気が抜け、音が鳴るのだ。
 ごく普通のハルタのローファーだったが、あの頃の私は素晴らしい一足を持っているのだと誇らしかった。スニーカーでもヒールでも、音の鳴る一足に出会えると、あの映画の登場人物になったようで今でも嬉しい。そういう靴はピタッと足に吸い付いてくるのだ。
 歳を重ねるごとに親と一緒に街の靴屋さんに行くことが減っていった。今はもうあの真新しい靴の匂いの塊を思い出すことができない。
 大人になった今は、ネットで好きな時に好きなものを自分のために買うことができる。それでもなんとなく習慣になっていた、春に新しい靴を買うということを今も続けている。今年も来たる春に向け、新しい相棒を手に入れた。
 寒い時季に撮影現場に入っていた。毎日体を縮こまらせながら早くあたたかくならないだろうかと寒さに対して不満を感じる日々だった。冬の光は景色がくすんで見える。それもまた好きであるが、このときは透き通る春の光を求めていた。演じていた役の影響が大いにあるが、とにかく気分が燻っていた。
 ネット通販のページを開くと、そこには来たるべき春を意識した新作のスニーカーたちが四角い写真に切り取られ並んでいる。
 一足のスニーカーにしばらくぶりに心が跳ねた。
 いつからかローテクスニーカーを好むようになった。ファッションの嗜好が変わったからだろうか。靴も服もシンプルで、できるだけ長く時間を共にしたいと思えるものを選ぶようになった。私が惹きつけられた一足もまたそういったものである。
 ラバーソールがあめ色であることが非常に気に入った。少し厚底に作ってあることも、ソールのフォルムがわずかに外にせり出すように丸みを帯びているのも愛らしい。シンプルなのに、ディテールにこだわりがあるように感じた。
 アッパー部分は白とグレーのデザインが施され、バックステーに差した眩いオレンジ。360度どこから見ても気に入ったデザインであった。白のサロペットと相性が良さそうだとか、これを履いて公園に菜の花を見にいきたいなとか、ごく自然にこの一足と過ごす時間のことを考えていた。そうとなったら自分の気持ちに忠実に、この出会いをふいにするものかとすぐさま決済したのである。
 ものとの出会いはその時々の自分の状態と大きく関係していると考えている。おそらく薄暗い光と寒さの中に身を置いていたからこそ、この眩しい一足に惹きつけられてしまったのだろう。心が春めきたかったのかもしれない。いや、そこを大きく越して、もうすでに夏を見据えているのかも。冷えた心はどんどんとあたたかい方へ進みたがっている。その気持ちを私は無視できない。
 プレゼントに靴をもらった時「これで素敵な場所へ行ってください」と手紙が添えられていたことがあった。だから新しい靴を下ろす時はいつもその言葉を思い出す。どこへ行き、どんな瞬間をこの一足と過ごせるだろうかと。透き通る光の中、どこまでもは無理だけれど、どこかには行けるはずだ。靴の音が鳴ったのだから。

まつい れな●1991年生まれ。女優・作家。小説『累々』、エッセイ集『ひみつのたべもの』が発売中。主演映画『幕が下りたら会いましょう』は11月公開。