世界最初のミューズは古代ギリシャに誕生した。現在のミューズは80年代に登場。人を陶酔させる魅力を放ち、いつまでも記憶に残る、そんな女性たちの呼称として――
ミューズが最初に登場したもののひとつに、紀元前7世紀頃に古代ギリシャの叙事詩人、ヘシオドスが書いた『神統記』がある。そこにはゼウスとその愛人ムネモシュネ(記憶の女神)の間に、9人の姉妹であるミューズが生まれたと記されている。「ミューズたちは、たくましい月桂樹」の若枝を引き抜くと、見事な杖として私に授けた。そして来し方行く末のすべてを讃美するようにと、私に聖なる声を吹き込んだ」と綴られている。ミューズはホメロスやウェルギリウスの叙事詩にも現れた。だが時代とともに、古代のミューズのスピリチュアルな印象は薄れ、性的魅力のある女性という意味に変わっていく。この言葉は汎用され、たとえばピカソが作品に描いた何人もの妻と愛人たちも、ひとまとめにくくられてミューズと称されていた。
20世紀後半になるとモデルたちはスター同然の注目を集めるようになり、ミューズはよりオブジェ的な存在に変化する。デザイナーの信頼を得て、ショー以外でも常にメゾンの服を着こなす女性や、世界的に高名なフォトグラファーが一途に撮り続ける人物がミューズと呼ばれた。世紀の変わり目の奔放な豪奢さを体現したミシア・セール(多数の芸術家のパトロンであり、ルノワールなどのモデルを務めた)から、60年代を代表する快活でボーイッシュなツィッギーまで、多彩なミューズとそのスタイルは、各時代を象徴しつつ、音楽や文学、ひいては政治にも劣らない強いインパクトを社会に与えてきたのだった。
80年代初期、ミューズと呼ばれたモデルたちはアーティストと同様の名声を得て、ナオミ・キャンベル、シンディ・クロフォード、ケイト・モスなどを筆頭にした90年代のスーパーモデルブームへと発展した。最近のモード界は売り上げ至上主義で、ミューズの役割も宣伝活動に絡むことが多い。けれどモデルのパット・クリーブランドやアルバ・チンが活躍した時代には、デザイナーとモデルの間に温かなつながりがあったという。ふたりは、メジャーファッション誌や、イヴ・サンローランやカール・ラガーフェルドといったビッグメゾンのランウェイを飾った有色人種モデルの先駆者的存在だ。
1973年には米仏のファッション対決ともいうべき《バトル・オブ・ヴェルサイユ》のショーにも揃って参加している。そのとき彼女たちがまとったのは、アフリカ系アメリカン・デザイナー、ステファン・バローズが手がけた、カラーブロックとレタスの葉先のような縁が印象的な服だった。それはまさに当時のディスコ文化とフリー・スピリットを表象していた。クリーブランドは、当時バローズから“一晩じゅう踊りあかしても服がダメにならないか、試しに着てみて”とよく服をもらっていたのよ、と教えてくれた。
ミューズとアーティストは、ときおり不思議な“親和力”で結びつけられる。挑発的な仏人フォトグラファー、ギイ・ブルダンと、彼に発掘されたモデル、ニコル・メイヤーの関係においてもそれは顕著だ。1978年撮影のシャルル・ジョルダンのキャンペーン写真で、ニコル・メイヤーは白い薄紙にやさしく包まれて、人形のように箱に収まって写っている。また写真家ナン・ゴールディンは1985年、サラ・ドライバー監督の映画『スリープウォーク』(’86年)の撮影現場を訪れ、ニューヨークの街のセットにいたレベッカ・ライトに目を留めた。ダンサーで女優でモデルでもあったレベッカ・ライトは当時を振り返る。
「あの頃は耳より上のショートカットで、ヘルメットをかぶったような髪型だったわ。でもナンにはそれが気に入られたみたい。なんていうの、ひと目惚れされたっていうか」。レベッカ・ライトにインスパイアされたゴールディンは、その年で最も印象的な作品を生み出した。それは、イーストヴィレッジの10丁目にあるサウナで妊娠中のライトが下着姿で横たわっているショット。膨れ上がった腹部がつややかな光を放つ、記憶に刻まれる一枚だ。
女性というものは、往々にして、自分のとっておきの魅力がどこにあるか気づいていないものだ。70年代末、モデルのパティ・ハンセンは、カルバン・クラインにそのフレッシュさを気に入られてようやく、自分のソバカスを受け入れられるようになった。「周りから褒められるのは、自分の大嫌いな部分ばかり」と語るのは元スーパーモデルのファリーダ・ケルファだ。1979年にパリの伝説的クラブ、“ル・パラス”でジャンポール・ゴルチエに見いだされたケルファは、ゴルチエはもちろん、ジャンポール・グード、ティエリー・ミュグレー、アズディン・アライアなど80年代に活躍した一流クリエイターの長年のミューズとなった。
「ジャン・コクトーはこう言っていたわ。自分の欠点を育みなさい、欠点はまさに自分自身なのだからって」。時代のミューズは、つまり欠点から生まれたのだ。(ミューズたちの着用アイテムを見る)
SOURCE:「The Muses」By T JAPAN New York Times Style Magazine
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