在日コリアンが集まって暮らす、京都府宇治市のウトロ地区。戦時中の植民地政策によって生まれたこのまちは、貧困と差別、劣悪な住環境、立ち退き、ヘイトクライムなどさまざまな問題に直面し、長らく日本社会から置き去りにされてきた。それでも住民たちはこの地に根をはり、声を上げ、自分たちの生活と権利を守り抜いてきた。のちにその声は大きなうねりとなり、国際社会や行政をも動かす力となった。地区の歩みを伝えるウトロ平和祈念館が開館して2年、まちの姿はいまどうなっているのか。変化を見つめ続けてきた地元の人たちに話を聞いた。
京都府宇治市伊勢田町ウトロ51番地。近鉄伊勢田駅を降り、住宅街を10分ほど歩くと、ウトロ平和祈念館の新しい建物が見えてくる。道を挟んで向かい側に広がるのは、戦時中に作られた京都飛行場の名残ともいえる陸上自衛隊大久保駐屯地。近隣には2棟の公営住宅が並び、地区全体がすっきりと整備されている。ここ10年ほどで行政によるまちづくりが進み、ウトロの風景は一変した。かつてはトタン屋根のバラック小屋のような不良住宅がひしめき、「スラム」と蔑まれた場所だった。
ウトロという名称は、かつての地名「宇土口(うどぐち)」が「ウトロ」と読まれるようになったことに由来する。太平洋戦争中にこの地で飛行場の建設が始まり、当時日本の植民地支配下にあった朝鮮半島の人びとが労働者として集められ、地区一帯に「飯場(はんば)」と呼ばれる長屋の宿舎が作られた。宿舎といっても廃材などで組み立てられたもので、1戸の間取りは6畳ひと間と約3畳の土間のみ。当時のウトロ地区には1棟15戸ほどの飯場が数十棟並び、1980年代後半まで住居として使われていた。
日本の敗戦により飛行場建設は中断されたが、失業した約1,300人の朝鮮人労働者らに対する補償はなく、事実上の放置状態に。植民地時代に「日本国籍」とされていた彼らは、戦後に一方的に国籍を剥奪され、健康保険や年金などさまざまな社会保障からも排除された。厳しい差別の中でも同胞どうし助け合って生活するため、祖国に帰るあてのない朝鮮人たちがウトロ地区に流入した。彼らの家族がこの地に住み続けてきたことで、ウトロは「在日コリアン」の居住区となった。
道路も水道もなし。劣悪な生活環境でも、たくましく生きた人びと
信じがたいことだが、ウトロ地区には1988年まで上下水道がなく、住民は地下水をくみ上げて生活をしていた。周囲より地盤が低いため、大雨が降るとウトロを流れる小さな川が氾濫し、地区内が浸水。周辺の開発で水質が汚染されることも多かったという。日本で生まれ育った在日コリアン2世で、ウトロに60年以上住み続ける金真木子さんは、当時の様子をこう振り返る。
「20歳のときに大阪から嫁いできたんですけど、当時は道すらあるかないかという状態でした。とんでもないところにお嫁にきたなと思いましたよ。排水が整備されてなかったから、雨が降ったら大騒ぎです。床上まで雨水が入ってくることもあったし、トタンぶきの屋根やから雨の音はうるさいし、夜もぐっすり眠れませんでした。家中隙間だらけで、冬はとにかく寒かったです。ストーブを抱えるようにして暮らしてました」
劣悪な環境でも住民たちは必死で働き、互いに助け合いながら生活を続けた。そんなウトロの居住環境を深刻な問題ととらえたのが、40年近くウトロを支え続け、のちにウトロ平和祈念館の初代館長に就任した田川明子さんだった。1986年に「ウトロ地区に水道敷設を要望する市民の会」を発足し、署名運動を開始。田川さんをはじめとする日本人市民たちもウトロの支援活動に尽力するようになっていった。
突然降りかかった立ち退き問題。日韓市民に広がる支援の輪
難題はさらに続く。ウトロの住民たちに降りかかってきたのが土地問題だった。1987年、ウトロの土地は住民の知らないところで民間の会社に転売され、不法占拠とみなされた住民たちは突然立ち退きを勧告された。その翌々年には地権者の西日本殖産が土地の明け渡しを求めて提訴。住民、支援者らは一丸となって抵抗したが、2000年に住民側の敗訴が確定した。
幼少期からウトロで育った在日コリアン2世の金玉子さんは言う。「裁判に負けてからもウトロを守る運動は続きました。立ち退きの強制執行を止めるために、みんなで道を塞いで座り込みしたこともあります。1世の人たちが『自分たちは十分に生きたから捕まってもいい。若い子たちは後ろにいきなさい』と言って、すすんで前に出てくれはったんです。あのときは支援者も含めて400人くらい集まりました。応援してくれる人がいたからできたんです」
所有権争いでは勝てなくても、人権でたたかうことを諦めなかった。住民と支援者たちはデモやスピーチ、抗議集会などさまざまな活動を通じてウトロの問題を訴え続け、国際社会にも積極的に問題提起を行った。2005年に国連人権委員会の特別報告者がウトロを視察。「日本政府は、ウトロ住民がこの土地に住み続けられる権利を認めるための適切な措置をとるべきである」との報告書が提出された。
ウトロの窮状に大きな関心を寄せたのが韓国社会だった。15万人以上の韓国市民がウトロを守るための募金に参加し、約6,000万円が支援金として送られた。この運動が韓国政府をも動かし、2007年に30億ウォン(当時3億6千万円)の支援金が韓国国会で可決。日韓市民や韓国政府の支援により、ウトロの土地の一部を買い取ることで合意が成立した。
今が幸せ。40年かけてようやく手にした安住の地
市民募金や韓国政府の支援など一連の動きを受け、日本の行政もようやく動き出し、ウトロのまちづくりが本格的に始まった。地区の生活インフラが整備され、2018年には市営住宅1期棟が完成。ウトロに住む60世帯のうち40世帯が入居した。地区の生活支援やまちづくりに関わりながら、ウトロ平和祈念館の副館長を務める金秀煥さんはこう述べる。
「市営住宅を作る名目は、不良住宅密集地における住環境整備事業でした。不良住宅、つまり住民たちの住み慣れた家屋を取り壊すことが前提だったので、初期入居の対象は住まいを失う人たちだけでした。今後は所得制限が設けられるので、低所得者以外の人は入居ができなくなります。
40年近くかけてやっと手にした安住の地ですが、ともにたたかった1世の方は亡くなり、2世の方の高齢化も進んでいます。市営住宅にお住まいの方も、70代、80代のひとり暮らしがほとんど。若い人はまちを離れてしまうので、今後ウトロのコミュニティをどうやって維持していくかが課題でもあります」
2023年には2期棟が完成し、市営住宅にはウトロにゆかりのある住民51世帯が暮らしている。ウトロ住民の金真木子さんは2018年から1期棟でひとり暮らし。同じく単身の妹・真知子さんと隣どうしで生活している。
「団地に入ってからは、ものすごく住みやすくなりましたよ。雨が降ってもぐっすり眠れるし、昔の苦労は忘れられます。ただ隣近所との交流が減ったのは寂しいですね。うちにしょっちゅう来るのは妹と玉子さんぐらい。あとは盆と正月に息子が帰ってくるぐらいです」(真木子さん)
「長屋に住んでた頃は、うちは停車場みたいでした。通りすがりにすぐ近所のおばちゃんや子どもらが入ってくるんですよ。よくみんなで寄り添ってしゃべったりしましたけど、今はピタッとドアが閉まってますから、よほどの用事がないとピンポンも押しませんね。ひとりで住んでる人も多いし、『たまには出といでや』と声かけてます」(真知子さん)
同じ棟の別階に住む金玉子さんは、小学生の孫とふたりで暮らしている。真木子さん・真知子さん姉妹は家族のような存在だ。
「23歳でウトロの人と結婚して主婦になりました。お義父さんが土木建設をしてはったから、住み込みの作業員さん20人くらいに毎日三度のごはんを作るんです。それを何十年もやってきました。4年前に娘が病気で亡くなったので、今は毎日孫のごはんを作ってます。昔は子守りも隣近所に気軽に頼めたけど、団地に入ってからは難しいですね。でも生活は楽になりましたよ。うるさい旦那もいなくなって天国です。それに何より立ち退きに怯えなくていいですからね。今がいちばん幸せや」
ウトロは、私が私らしくいられるまち
大阪生まれの真木子さん、真知子さん姉妹は、ウトロに来るまでは「谷口」という通称名を使い、朝鮮人であることを隠して生きてきた。日本の学校に通い、朝鮮語や朝鮮の文化などの教育を受けずに育った。ふたりは「ウトロで育ちたかった」と声をそろえる。
「朝鮮の文化や習慣など、ここで覚えたことがいっぱいあります。ウトロの1世の方はみんな優しくて、姉のように慕っていた人もいました。30年前に主人が亡くなってからずっと働いてるんですけど、家族でもないのにいつも晩ごはんを用意して待っててくれはるんですよ。『はよおいで、ごはん食べよ』と言ってね。朝晩必ず顔を合わせていました。
1世の方は団地に入るのを楽しみにされていました。でも団地ができる間近でほとんどの方が亡くなられました。もう少し早くに完成していたら一緒に入れたんです。それがいちばん残念です。1世の方たちのことは今でも思い出します」(真木子さん)
「姉の義母が病気になって、介護の手伝いでウトロにきてから50年経ちます。生活するには厳しいところでしたが、ここにいたら自分のルーツを隠さなくてもいいから安堵感がありますね。ウトロは、私が私でいられるまちなんです」(真知子さん)
ヘイト乗り越え、交流の拠点に。ウトロ平和祈念館
ウトロ地区のまちづくりの一環で、2022年に完成したのがウトロ平和祈念館。地区の歩みや在日コリアンの歴史を伝える施設であり、地域に開かれた交流の拠点にもなっている。
開館準備が進む最中、ウトロ地区内で起きたのが放火事件だった。2021年8月30日、祈念館に展示予定だった立て看板などを保管していた倉庫が全焼。住民運動の歴史を示す重要な展示物の大半が消失し、地区の民家など7棟が半焼した。
副館長の金さんは話す。「犯人は祈念館ができることを知って倉庫に火をつけました。のちの取り調べで、彼は在日コリアンに会ったこともないと言ったそうです。事件後、祈念館なんか作れるほど甘くないという消極的な声が出てくるのではと案じていたのですが、ある2世の男性は『放火が起きたのはウトロの歴史が伝えられていないからや。立派な祈念館を作って、二度とこんな事件が起こらないようにしなあかん』と励ましてくださいました。ここの人たちは本当に強いです」
出会って語り合わなければ、分かり合えない。その思いを象徴するメッセージとして、『ウトロに生きる ウトロで出会う』という祈念館のテーマが掲げられた。
「ウトロは怖い。近寄ってはいけない場所」。長年、差別と偏見の目を向けられてきたウトロ地区に、今は多くの人が足を運ぶ。開館から2年経った今年、来館者は2万4千人を超えた。「祈念館があるからみんなに会える。私たちの憩いの場なんです」と住民の真木子さんは言う。
祈念館の1階には丸テーブルやキッチンがあり、カフェのようなスペースが広がる。月に一度開かれる「ウトロカフェ」ではボランティアの方が住民との会話を楽しんだり、近所の小学生が夏休みの宿題をしにきたり、他府県や海外の学生が見学にきたり。かつての「スラム」とはかけ離れた光景が広がっている。
「2023年9月に、祈念館の東隣にある西宇治中学校の生徒たち130人が人権学習に来てくれました。それまでウトロは危ない場所だと思い込んでいた子も多かったようですが、ここに来て知ることの大切さを学んでくれたようです。それ以来、子どもたちが学校帰りに寄って、祈念館の前にあるバスケットゴールで遊ぶように。ウトロに偏見を持っている人たちもまだまだいるかもしれませんが、偏見は知らないから生まれてくるもの。一度ここへ来てみてほしいです」と、祈念館スタッフの阿部ゑりさんは力を込める。
「年代も性別もさまざまな方が来館されますが、特に印象的なのは、被差別部落問題などの人権研修に取り組まれている各地域の自治体の方がよく見学にきてくださることです。自分たちの問題以外にも視野を広げようという思いでここに来てくださるのは、よろこばしいことですね」と副館長の金さん。
在日コリアン3世の金さんは、朝鮮学校で民族教育を受けて育った。「日本か朝鮮かではなく、日本と朝鮮どちらのアイデンティティもある」。マイノリティとして自分が何人なのか葛藤するよりも、自身のルーツを肯定的に捉えるように意識してきたという。
「マイノリティやマイノリティに寄り添う人たちは、マジョリティに声を届ける機会が圧倒的に少ないのが現状です。在日外国人の問題、性的少数者の問題、障害がある人の問題などとカテゴライズせず、社会全体の人権課題として関心を持つことが大切なんじゃないでしょうか。ここ祈念館でも、ウトロや在日コリアンのことに限らず、さまざまな人権課題について発信できる場にしていきたいと思っています」
苦難の歴史を紡ぎながらも暗い過去に縛られず、前を向くウトロの人たちは、温かかった。戦争によって生まれたまちに、懸命に種をまき芽を育てた1世の人たち。それを踏みにじられそうになっても必死で守り抜いた2世、3世、支援者の人たち。壮絶な軌跡の先にいま、奇跡の花が咲いている。終戦から79年、やっとの思いで咲いたウトロの花に、強く平和を願う。