塚田さんが本格的に柔道を始めたのは、名門の土浦日本大学高等学校に入ってから。入部したての頃は厳しい練習についていけず、辛い日々の連続だった。自分より身体の小さな相手にも軽々と投げられ、自信もやる気も失った。
ターニングポイントとなったのは、高校1年の夏合宿のとき。「相手に勝つ前に、弱い自分に打ち勝つ。それが柔道だ」ある先輩に言われた言葉が、考え方を180度変えた。
「先輩からのアドバイスが、消極的だった自分を変えるきっかけになりました。遅くてもいいから歩かずに最後まで走ろう、投げられてもいいから前に出てみようと思うように。すると体力もどんどんついてきて、試合にも勝てるようになっていったんです。まわりから期待されるようになってからも、先輩の言葉をずっと心の支えにしてきました」
全力を出し切っても、どうしようもないこともある。北京五輪の敗北が「ギフト」に
東海大学進学後の2002年に、全日本女子選手権で初優勝。力強い大外刈りを武器に、めきめきと頭角を現していった。
2004年にはアテネ五輪を制し、4年後の北京五輪では銀メダルを獲得。決勝で中国のトウ・ブン選手を圧倒するも、残り8秒で逆転の一本負けを喫した。最後まで積極的に前に出る柔道を貫いた名勝負だった。塚田さん自身も、北京の決勝には特別な思い入れがあるという。
「かなり追い込んで練習していたので、北京では最高のパフォーマンスを出せました。それでも相手が強くて負けてしまった。全力を出し切ってもどうしようもないこともあるんだという経験ができたのは、今となっては財産だと思っています。
もしもあのときトウ・ブン選手に勝っていたら、今教えている学生たちにも勝負に執着することを押し付けていたかもしれません。試合で負けた子たちに『そういうこともあるよ』と言ってあげられるのは、北京の敗北があったから。谷本歩実ちゃん(アテネ五輪と北京五輪の女子柔道63kg級金メダリスト)は『ギフトだよ』と言ってくれました」
イギリス留学で学んだ、指導者の説明責任と選手の自立性
女子重量級の第一人者として活躍した塚田さんは、2010年12月に引退を表明し、指導者の道へ。JOC(日本オリンピック委員会)のスポーツ指導者海外研修員として2年間イギリスへ留学し、語学学校に通いながらコーチングを学んだ。日本との育成環境の違いに最初は戸惑いつつも、自ら選手に歩み寄り、1対1のコミュニケーションに全力を注いだ。
「イギリスのナショナルチームの練習に参加したとき、選手の自己主張の強さに最初は驚きました。例えば78kg超級の私が70kgの選手の相手をしようとすると、『どうして自分の階級じゃない真希と練習しなきゃいけないんだ』と問われるんです。先生に言われたことは黙ってやるものと思っていた当時の自分の感覚では、信じられない質問でした。なぜその練習をやるのか、指導者は常に説明が求められるので、その都度きちんとコミュニケーションをとって納得してもらう必要がありました」
スポーツ界特有の主従関係が、セクハラやパワハラの温床になりやすいといわれている。選手と指導者が対等な関係で、適度な距離感を保っていることも新鮮だった。
「日本の練習は、長い時間をかけて体力と技術を上げていく総合的なプログラムが主流です。そのため選手と指導者がずっと一緒にいることが多いのですが、イギリスの練習はピンポイントでターゲットを決めて、それに向けて無駄なくこなしていくスタイル。選手と指導者は、柔道の現場ではしっかりとタッグを組むけれど、それ以外ではそれぞれの居場所を確立しています。そういうフラットな関係性が今の時代に合っていると感じました。選手も自立するし、指導者のワークライフバランスも整うように思います」
選手と指導者が互いにリスペクトする関係性
元金メダリストで大学女子柔道部コーチによる、未成年の部員に対するセクハラ行為が発覚したのが2011年。元コーチは準強姦罪で実刑が確定した。
それとほぼ同時期に、日本の女子代表チームの暴力指導が社会問題に。2013年1月、ロンドン五輪代表を含む女子の強化選手15名が、代表監督からの暴力指導を訴える告発文書をJOCに提出した。当時の代表監督や強化委員長は辞任。旧態依然とした柔道界の体質が明るみに出た事件だった。
「一連の騒動があった期間、私はまだロンドンにいたので、選手たちが訴えを起こす前に何か自分にできることがあったんじゃないかと考えたこともありました。そのときの憤りをメモ書きしたノートがあって、今でもたまに読み返すことがあります。あのときのパワハラ問題は、指導者と選手がお互いにリスペクトする姿勢を柔道界全体で受け入れていくためのアクションだったと思っています。
一方で、最近よく“アスリートファースト”という言葉を聞くのですが、それには違和感を覚えるんです。選手と指導者は、どちらが上でも下でもないはず。共にミッションをクリアするワンチームであるべきです」
柔道界の「男女の壁」
2013年に日本代表コーチに就任した塚田さん。2014年からは東京女子体育大学柔道部の監督を歴任するなど、指導者として経験を積んできた。現在は母校の東海大学で体育学部武道学科の教員として指導を行う傍ら、女子柔道部の監督も務める。
1992年のバルセロナ五輪で正式種目となった女子柔道だが、30年以上経った今でも柔道関係者の多くは男性だ。
全日本柔道連盟によると、2023年度の全国の個人登録者のうち、女性は全体の約2割。指導者や役員の女性の割合は1割にも満たない。東海大学柔道部でも、女子の人数は男子に比べると圧倒的に少なく、女性の柔道教員はほかにいなかった。塚田さんは「女性の同僚がいなくて息苦しくなるときもあります」と吐露する。
「最近は性別で分けない方が良いという風潮がある一方、どうしても男女ではっきりと分けられてしまうのがスポーツ界の難しいところです。『女はでしゃばるな』『女だから気を遣った方がいい』といったジェンダーバイアスには反発しますが、男性の先生たちの中でうまく立ち回るために、無意識に押し殺している部分も。
悩んだときは、業種も職種もまったく違う同性の友人に相談しています。彼女たちのアドバイスに刺激をもらいながら、なるべくストレスを溜めないようにやっていくのが大事かなと思っています」
細やかな配慮が求められる女子の指導
指導の難しさに日々悩みながらも、人に興味があり、人の成長に関わりたい。そんな思いを抱く塚田さんだからこそ、深めてきた絆がある。学生たちからの厚い信頼を得ると同時に優れた指導力を発揮し、全日本学生優勝大会では東海大柔道部女子を4度も日本一に導いた。
「女子の指導には細やかな配慮が必要」と話す塚田さんは、同性の指導者として学生の気持ちにも真摯に寄り添ってきた。中でも柔道の現場で女性が直面する困りごとのひとつが、試合中や練習中の経血漏れだ。
現行の柔道の国内ルールでは、試合中に出血した場合は救護スタッフの止血措置を受ける必要があるとされている。2回目の止血以降も同じ部位から出血が続いた場合、その選手は試合続行不可能とみなされ、相手選手の棄権勝ちとなる。このルールは、経血漏れにも適用される可能性がある。
「月経に関するルールの整備は課題だと思います。試合や練習の日に突然生理が始まってしまうことはよくあること。選手は着替えや生理用品などを入念に準備して臨みますが、先生やコーチが男性だと、どうしても打ち明けづらいものです。以前、男性の先生の授業のサブで私が入っていたときに、生理痛をこっそり訴えてくる学生がいました。中には休みたいと言い出せず、痛みを堪えて気絶してしまった子も。
経血の量や周期、体調変化はコントロールできるものではないので、学生たちには臆せずどんどん教えてほしいと伝えています。女子を指導する上では、普段からデリケートなことでも気軽に言える関係性を築いておくことが大事です」
柔道界でも女性が働きやすい環境づくりを
近年、日本の女子柔道選手の活躍は目覚ましい反面、女性の代表監督はこれまでひとりも生まれなかった。そこに風穴を開けたのが、今回の塚田さんの抜擢だ。セクハラ問題やパワハラ問題に揺れてきた女子柔道が、ようやく新時代を迎える。
任期は4年。次のロサンゼルス五輪に向けて、7階級の強化選手を選考し、若手の育成にも注力していく。パリ五輪における女子柔道のメダル獲得数は、過去最低の2個(金1・銅1)という厳しい結果に終わった。立て直しが求められる中、塚田さんは前任者の路線を踏襲し、選手の自主性を尊重する指導スタイルを表明している。
同時に、新たな試みも模索中だ。これまで階級ごとに設けていた担当コーチ制度を見直し、5人の代表コーチがどの階級の選手も指導できる方針を検討している。
「担当コーチ制のメリットは、自分の階級の担当コーチとは密にコミュニケーションをとれることですが、その分どうしても縦割りになってしまいがち。選手がいろんなコーチと関われる方が、チームジャパン全体で見たときに横のつながりが強くなるんじゃないかと思っています」
塚田さんが選任した代表コーチ5人のうち、2人は女性。今回の担当コーチ制の見直しは、出産や育児などで女性のライフステージが変わったときに、柔軟に対応できるようにする狙いもあると述懐する。
「代表チームにおける指導者の仕事は拘束時間が長く、遠征や合宿でプライベートを犠牲にせざるを得ないこともあります。女性の代表コーチはこれまでにもいらっしゃったのですが、家庭の事情で『迷惑をかけてしまったら申し訳ない』と思ってしまう方も多いようです。周りが大丈夫と言っても、厚意に甘えきれない状況があるんだなと感じていました。
代表の仕事と出産・育児との両立を考えたときに、階級ごとに担当コーチを固定しない方が、誰かがポジションを空けても対応しやすいんじゃないかと思っています。今回コーチを引き受けてくださった皆さんは、私の考えに共感してくださいました。古い体質といわれる柔道界ですが、少しでも働きやすい環境を作っていきたいです」
大切にしている言葉は「自他共栄」。柔道を創始した嘉納治五郎が掲げた言葉だ。
「人と関わっていく中で、自分も他人も共に栄えていく。『自己犠牲』とも違って、ワクワクする言葉だなと思います。代表監督の打診があったとき、人の成長に携われることを素直に嬉しいと感じました。まずは信頼できるスタッフとクリアするべき課題を建設的に話し合い、そこに選手たちを巻き込んでワンチームを作っていきたい。選手に頼られる指導者として、最大のリスペクトをもって頑張ります」
困難に打ち勝つレジリエンス力、自ら歩み寄る謙虚な姿勢、相手へのリスペクトと細やかな配慮。「柔よく剛を制す」という言葉があるが、それはまさに塚田さんのしなやかな生き様を表すかのようだ。
スポーツ界は社会の縮図ともいわれる。多くの女子選手たちが「自分も指導者になりたい」と思い描くことのできるロールモデルとして、塚田さんの存在は希望の光となるだろう。「ネガティブな側面ばかり見ていたら、何をやってもうまくいかない」と塚田さんは朗らかに言う。大切なのは、女子柔道がいかに不遇の時代を辿ってきたかよりも、この先のよりよい未来を考えることだ。4年後、私たちにどんな夢を見させてくれるだろう。塚田新体制は、まだ始まったばかりだ。