シンプルなのに、鮮烈。モダンなのに、どこか親しみやすい。まとう人の肌に溶け込みながら、その人自身の魅力を引き出す。そして気づけば、「それはどこの香水?」と尋ねずにはいられなくなる。そんな忘れがたい余韻を残す香りは、どのように生まれるのだろう。
その答えの一つが、2019年にフランスで誕生したフレグランスブランド「MATIERE PREMIERE(マティエール プルミエール)」にある。
ブランド名は、フランス語で「原料」の意味。その名の通り、創業者であり調香師のオーレリアン・ギシャールは、香料そのものに徹底して向き合ってきた。南仏グラースに代々続く調香師の家系の7代目として生まれ、数々のメゾンの香水を手がけたのち、自身のブランドを創設。グラースに自ら農園を所有し、ブランドを象徴するセンティフォリアローズやチュベローズを有機栽培。世界各地から厳選した天然香料とともに、それぞれの素材が持つ個性を最大限に引き出す香り作りを続けている。今秋発売となる新作「メタル ラベンダー」の日本発売にあたり来日したギシャール氏に、素材への飽くなき探究心と、香りを現代的に再解釈する哲学について話を聞いた。
“モダンな香り”は、ミニマルとマキシマルなスタイルの対比
彼が語る「モダン」とは、単にミニマルで洗練されたものを意味するわけではない。
「実は、私には二つの“マドレーヌ・ド・プルースト”があるんです」
香り好きなら、“マドレーヌ・ド・プルースト”と言われてピンとくる方も多いだろう。その由来は、マルセル・プルーストの著書『失われた時を求めて』から。登場人物のマドレーヌが、焼き菓子の香りから幼少期の記憶を鮮明に思い出す名シーンから、“記憶に紐づいた香り”を意味する。
一つ目は、7〜8歳の頃の記憶。家族と庭で過ごしていた頃、バラの収穫にやってくるロマの人々と親しくなった。驚くことに、当時と同じ家族が、今もなお彼の畑で収穫を手伝っているという。
「収穫が終わると、彼らの古いフォルクスワーゲン・ゴルフに乗せてもらって、抽出工場へ向かったことがありました。助手席は壊れ、シートベルトもない。タトゥーを入れた大柄な女性がタバコを吸いながら大音量で音楽を流している。私は摘みたてのバラを詰めたジュート袋に囲まれて、後部座席に座っていました。今振り返ると、あれは美しい思い出であると同時に、とてもモダンな光景だったと思います」
そして二つ目は、父の記憶。調香師だった父は、仕事から帰ると試作品を家族の肌に吹きかけ、「どれが好き?」と問いかけながら、人の肌の上で香りを確かめていた。「それが私にとって二つ目の“マドレーヌ・ド・プルースト”です」
装飾を削ぎ落とした端正なボトルデザインも、ブランドの美学を物語る
その記憶は、マティエール プルミエールの香りに漂うモダニティは、単なるミニマリズムではないことを物語る。
「私にとって、マティエール プルミエールとは、ミニマルなスタイルとマキシマルなスタイルのコントラストなんです。その二つの間にある緊張感こそが、私たちの個性だと思っています。私たちほど一つの香料を大胆に使うブランドはないでしょう。でも、その表現方法はとてもシンプルです」
複雑さによってラグジュアリーを表現する時代は終わった、と彼は言う。
「今のファッションを見てもそうでしょう? 余計な装飾を削ぎ落とした、より本質的なものになっている。香りも同じです。私たちはマーケティングのために香りを作っているわけではありません。自分たちの原則を大切にしているのです」
そしてそれは、7代続く調香師一家の伝統でもある。
「調香師はアーティストです。アーティストの使命とは、マーケティングや数字、トレンドに従うことではありません。自分自身のユニークな世界を提案すること。私の唯一の目的は、その人が街で呼び止められて、『あなたは何をつけているの?』と聞かれ、その香りの印象を残すことなんです」
ブランドを代表する「バニラ パウダー」は、ほとんど広告を行っていないにもかかわらず、世界中で愛される存在となった。柔らかなムスクのヴェールに包まれたような余韻が人を惹きつけ、「それはどこの香水?」と問いかけさせる。それこそが、彼にとって理想の香りだという。
素材へのこだわりは、日本での出合いがきっかけ
意外にも、ギシャール氏が素材そのものの美しさに目を向けるきっかけとなったのは、日本での出合いだった。
「実は、素材の美しさを見出したのは日本がきっかけなんです。私はイッセイ ミヤケと10年間仕事をしていましたが、2014年に来日した際、日本の竹細工の展示会を訪れました。日本人が、自国に根ざした植物である竹を用いて、驚くほど繊細で美しいものを生み出している。その姿に深く感銘を受けたのです」
南仏・グラース出身のギシャール氏にとって、その体験は自身のルーツを見つめ直す契機にもなった。
「グラースには世界でも類を見ないほど素晴らしい香料があります。しかし当時の私は、日本の竹細工のように、その素材そのものに十分な敬意を払えていないのではないかと感じました。もっと素材の個性を理解し、その魅力を最大限に表現する方法があるはずだと思ったのです」
帰国後、彼はグラースで自ら原料栽培に取り組み始める。そして、後のマティエール プルミエールへとつながる、ある象徴的な出来事が起こった。
「ある時、ファッションやフレグランス業界の友人たちをグラースに招待しました。その中に、15年間も香水をつけていない女性がいたんです。彼女は多くの香水を試してきたけれど、甘すぎたり複雑すぎたりして好きになれなかったのだそう。ところが、畑で素材そのものの香りを嗅いだ瞬間、『こんな香りは初めて』と感動していたのです」
花々が持つ圧倒的な力強さ、豊かなテクスチャー、そして比類ない濃密さ。その反応を目の当たりにした時、一つの問いが生まれた。
「もし、この素材が持つ魅力を余すことなく表現できたら、彼女は香水をつけるだろうか?」
その場で調香した試作品を彼女に渡したところ、後日パリの街で身につけていた際に、行く先々で「それはどこの香水?」と声をかけられたという。
「そこからマティエール プルミエールの考え方が生まれました。私たちの香りはすべて、一つの原料を中心に据え、その素材が持つあらゆる魅力を表現することを目指しています。大切なのは、素材の良さを覆い隠すことではなく、その個性を最大限に引き出すこと。そして、長く美しい余韻を残すことです」
南仏に広がる、広大な自社農園
その思いを形にするため、ギシャール氏は農業に必要な資格を取得し、グラースに自社農園を創設した。
「エシカルな有機栽培にこだわり、まず栽培を始めたのがセンティフォリアローズでした。そこから生まれた最初の香りが『ラディカル ローズ』です。まるで摘みたてのバラそのものを閉じ込めたような、原料の個性が伝わる香り立ち。メゾンを代表する一本です。
自然由来の原料には、もちろん素晴らしい側面だけでなく、わずかな苦味や青さ、時には雑味もあります。でも、それらを消し去るのではなく、すべてを受け入れ、活かすこと。それこそが、素材の魅力を余すことなく表現するということなのです」
加えて、もう一つの象徴的な原料であるチュベローズも有機栽培で育てている。
「非常に高価な最高級品種を栽培し、9月から10月にかけて、一輪一輪手摘みで収穫しています。その後、近隣の工場へ運び、鮮度を保ったまま抽出するのです。収穫したばかりの花と、数時間後の花では香りがまったく違いますから」
世界中から厳選した天然香料を調達する一方で、自ら土を耕し、花を育て、収穫した原料を香りへと昇華させる。そんな一貫したもの作りこそが、マティエール プルミエールの揺るぎない個性となっている。
「私たちは小さなニッチメゾンですが、自分たちの農園を持ち、自ら収穫した花から香料を生み出しています。そのことを、とても誇りに思っています」
一輪ずつ、人の手によって摘み取られた花々は、フレッシュな状態で抽出される
素材の魅力を追求した新作「メタル ラベンダー」
「メタル ラベンダー オードパルファム」50ml・¥31,350 100ml・¥45,980 (2026年9月23日発売予定)
そして2020年、ギシャール氏はラバンディン畑を開拓し、有機栽培をスタートさせた。そこから生まれた最新作が「メタル ラベンダー オードパルファム」だ。
「ラベンダーは、南仏を代表する作家ジャン・ジオノがかつて語ったように、“プロヴァンスの魂”ともいえる存在です。しかし一方で、ラベンダーには清潔感や石鹸のようなイメージや、少し古めかしい、祖父母の世代の香りという固定観念もある。近年、この素材をモダンに再解釈した香りはほとんどありませんでした。だからこそ、現代のラベンダーを作りたいと思ったのです」
一般的な香水で使われることの多いラバンディンオイルに対し、真正ラベンダーは標高1000メートル以上の限られた土地でしか育たない繊細な植物。シャープで明るい印象を持つラバンディンに対し、ラベンダーはよりフローラルで柔らかく、干し草を思わせる温もりや、ほのかな甘さを湛えている。
「ラバンディンの持つメタリックでクールな表情の奥に、本物のラベンダーが持つ柔らかさや温かみを重ねたかったのです」
南仏にある、蒸留施設。ブルータリズムを思わせる近代的な外観。
その着想源となったのは、絵葉書のようなプロヴァンスの風景ではなかった。
「観光ポスターのような、のどかなプロヴァンスではありません。私が描きたかったのは、現代のプロヴァンスです」
ラベンダーを蒸留する工場に並ぶステンレスのタンク。無機質な金属の光沢。ブルータリズム建築を思わせるコンクリートの質感。そこに流れる冷たい空気までもが、「メタル ラベンダー」のインスピレーションとなった。
用いられた香料はわずか12種類。ラバンディンのシャープでメタリックなトップノートから始まり、やがてオート=プロヴァンス産ラベンダーアブソリュートの柔らかな甘さが現れる。そしてラストではムスクが肌を優しく包み込み、カシュメランがミネラル感やコンクリートを思わせる無機質な余韻を添える。
「香りの各要素が段階的に切り替わるのではなく、一本の線のようにシームレスにつながっていく。それが理想でした」
彼が思い描いたのは、オーバーサイズのTシャツをまとった時のような感覚だという。
「肌とコットンの間を空気がなめらかに流れていくような、ひんやりとした爽やかさ。そして同時に、肌に寄り添うような親密さ。その二つが共存する香りを目指しました」
青空の下に広がるラベンダー畑ではなく、ステンレスとコンクリート、そして青い光に包まれた現代のプロヴァンス。「メタル ラベンダー」は、伝統的な素材に新たな息吹を吹き込んだ、ギシャール氏ならではの解釈だ。
香りによって、自由と直感を開放して
だからこそ、「メタル ラベンダー」に込められているのは、単にラベンダーを現代的に再解釈することだけではない。その奥には、ギシャール氏が一貫して追い求めてきた「自由」という思想がある。
「長い間、香水の世界では、複雑さや難解さが美しさと結びつけられてきました。知識や教養がなければ理解できないもの、教育されなければ楽しめないものになっていたのです」
しかし彼が見出した美しさは、もっと直感的で、もっと個人的なものだった。
「素材そのものには、本能的に感じ取れる美しさがあります。だから私は、できる限りシンプルに表現したい。そうすることで、香りと人との関係は完全に自由になるのです」
複雑さによって洗練を生み出すのではなく、引き算によって本質を際立たせる。その思想は、「メタル ラベンダー」にも通じている。わずか12種類の香料が一本の線のようにシームレスにつながり、まとった人の肌と一体化していく。
「私は、『こう感じてください』と押しつけたくありません。香りとの関係は、人それぞれでいい。自由に解釈してほしいのです」
南仏のラベンダー畑、調香師だった父の仕事場、日本の竹細工、そして現代のプロヴァンス。さまざまな記憶や風景を通して、オーレリアン・ギシャールが辿り着いた答えは、驚くほどシンプルだった。
香りとは、何かを説明するためのものではない。ただ静かに寄り添い、その人自身の記憶や感情と結びつきながら、新たな物語を紡いでいく。
それこそが、マティエール プルミエールが描く、最も自由な香りのあり方なのかもしれない。