支援が私を救ってくれた。サヘル・ローズさんの今を生きるメッセージ

「人生のお手本は、チャールズ・チャップリン。表現を通して社会を風刺し、世の中にさまざまな問題提起をし続けた彼の姿勢から、学ぶべきことがたくさんあります」。
イラン・イラク戦争(1980~88年)のさなかにイランで生まれ、物心つく頃から孤児院で生活していたサヘル・ローズさん。7歳のときに養子として引き取られ、その翌年の1993年、日本で働いていた義父を頼り、養母とともに来日した。虐待、貧困、いじめ、苛酷な試練に何度も直面し、一時は自死をも考えた。壮絶な経験を乗り越えてきた彼女はいま、俳優として活躍する傍ら、世界の貧困地域や難民キャンプ、施設で暮らす子どもたちを中心に、人道支援活動にも力を注いでいる。「支援活動を続ける中で、一番救われているのは自分自身です」。凛とした眼差しをまっすぐこちらに向け、サヘルさんは静かに語り始めた。

苦しいのは自分だけじゃない。インドへのひとり旅で、世界の見え方が変わった

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日本に来てすぐの頃は、義父と養母との3人暮らし。ワンルームの小さなアパートで、つかの間の幸せな生活だった。程なくして、義父はサヘルさんに暴力を振るい始める。虐待は次第にエスカレートしていき、養母は離婚を決意。家を追い出され、行くあてもなく、冬の公園でふたりで野宿をした。幸いにも、食べ物を分けてもらったり、寝泊りさせてもらったり、手を差し伸べてくれる人がいた。おかげでなんとか住む場所を借りることができたし、家族滞在ビザから技能ビザへの変更手続きもうまくいった。だが、言葉も文化も宗教も違う異国の地での母子ふたり暮らしは、決して楽なものではなかった。

「母は毎日、朝から晩まで働き詰めでした。清掃業とペルシャ絨毯を織る仕事をしていたのですが、私もできる限り母を支えたくて、土日だけ仕事を手伝わせてもらっていました。ギリギリの生活でしたが、私の学費を稼ぐために必死で頑張ってくれました。
母は、強さと慈愛に満ちあふれた人です。自分が空腹でも、他人に分け与えるような人。すべてを投げ打って私を懸命に育ててくれることに対して、『彼女の強さはどこからくるんだろう?』と幼い頃からずっと思っていました。同時に、どこか申し訳ない気持ちも抱えながら生きてきました」

当時のイランの養子縁組制度では、養母になる人は「子どもを授かることができない」というのが条件だった。裕福な家庭で育ったサヘルさんの養母は、家族の猛反対を押し切り、手術を受けて自ら子どもを産めない体に変えてまで、母親になる覚悟を決めた。のちにその事実を知ったサヘルさんは、母に対して罪悪感を抱くようになった。

「もともと母は大学院生で、教授を目指すような人だったんです。なのに、私を養子にしたせいで、彼女の人生はどん底に落ちてしまった。自分のためにそこまでしてくれた人に、絶対に反抗なんかしちゃいけない。この人に全力を尽くして、恩を返さなきゃいけない。そう思って、ずっと心にブレーキをかけてきました。でも正直にいうと、それがすごく苦しかったんです」

大学に進学したサヘルさんに、あるとき養母は「外の世界を見ておいで」と言った。日本にいると、どんなに生活が苦しくても、なんだかんだで助けてくれる人たちがまわりにいる。蛇口をひねれば、きれいな水が出てくるし、道端に地雷が埋まっているわけでもない。「学生時代にインドで暮らしていた母が見てきたものを知れば、彼女の慈愛の精神をより深く理解できるのではないか。母に対して抱いている後ろめたい感情を、和らげるヒントがあるかもしれない」。そう思い、人生初のひとり旅でインドへ行った。

「インドの貧困地域で暮らす子どもたちは、私なんかよりもずっと大変な思いをしていました。食べるものも着るものもなく、物乞いをしながら、牛の糞を固めた家とも呼べないようなところで生活し、水たまりの泥水をすくいあげて飲んでいました。苦しい人たちは、世の中にあふれている。日本にいたら見えなかった現実を目の当たりにして、世界の見え方がガラリと変わりました」

その国で自立して生きていくために。子どもたちに学ぶ機会を

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物乞いをするインドの子どもたちに同情したサヘルさんは、持っていた小銭を彼らに手渡して帰った。その話を聞いた母は、彼女を叱ったという。
「『あなたは毎月彼らにお金を渡せるの? あなたは明日も生きてるの?』と問われました。魚を渡し続ければ、彼らは一生釣りの仕方を覚えられない。大事なのはお金を渡すことではなく、仕事の仕方を教えること。その国で自立して生きていくための手助けをすること。子どもたちには学ぶ機会を与えなさい。母のその言葉が、強く心に響きました」

インドでの経験から、子どもたちへの支援活動に関心を持つようになったサヘルさんは、カンボジアの孤児院を訪れた。現地の子どもたちと触れ合った後、帰り際にひとりの少女が駆け寄ってきて、サヘルさんに写真を差し出した。以前に来たボランティアの人が撮ってくれた、貴重な1枚だった。その写真の裏側には「私をここから連れ出して」というメッセージが書かれていた。

「私が孤児院で養母と出会ったときに『私のお母さんになって』と言ったこととすごく重なりました。彼女は多くのことを手放して、私を育てる覚悟を決めてくれましたが、私はその子の言葉をただ受け止めることしかできなかった。改めて、母のやったことは生半可な気持ちではできないことだと実感しました。私にできることはとても限られているけれど、それでもどうにかして子どもたちを救いたい、彼らが学べる環境を作ってあげたいという思いが強くなりました」

支援を“支配”に変えてはいけない。ひとりの人生の一部になれるよろこび

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サヘルさんは数年前から、インドネシアのティモール島に住むアナという少女の学費を支援している。出会った当初、アナは小学2年生で、毎朝学校に行く前に2時間かけて水を汲みに行き、両手と頭にバケツをのせて運んでいた。アナの将来の夢は、大学教授になること。先生として働き、両親にちゃんとしたご飯を食べさせてあげたいという。しかし、彼女の住む村の子どもたちは、誰ひとり小学校高学年以上に進んでいなかった。特に女子の場合、結納金目当てで早くに結婚させられる「児童婚」問題も深刻だった。

「女の子として生まれたら不幸とされるなかで、アナももしかしたら学校を辞めさせられてしまうかもしれない。そうならないためにも、私が彼女の学費を支援しようと決めました。月に一度、手紙と写真を送ってもらっているのですが、いま中学まで進んでくれていて、それがすごくうれしいんです。アナには、村出身の初めての先生になってほしいと思っています」

大勢の人に支援ができなくて苦しむよりも、たったひとりでもいいからその人の人生に関わり、応援したい。アナへの支援を通じて、サヘルさんの中で明確にやりたいビジョンが定まったという。しかし、気を付けなければならないのは、決して支援する相手に期待をしてはいけないということだ。

「期待通りにならないと『せっかくここまでやってあげたのに』と思ってしまいがちですが、それは間違っています。仮に支援がうまくいかなかったとしても、それを純粋に応援できるかどうかが大切。自分がやりたくてやっていることですから、支援を“支配”に変えてはいけない。その原点を忘れないように、つねに心がけています」

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大勢の子どもたちの前で話しても、たったひとりに伝われば大成功。これまでにさまざまなところで青空教室を開いてきた経験から、伝えることの難しさを実感しているというサヘルさん。バングラデシュのストリートチルドレンに会いに行ったとき、最初はただ睨みつけていた子どもたちも、じっくり時間をかけて接していくと次第に打ち解けてくれた。帰り際に10分だけ、子どもたちを集めて自身の過去の話をした。すると、たったひとりだけ、ハサンという名の少年だけが、サヘルさんのもとに話しかけにきてくれた。

「ハサンは私のことを一番睨みつけていた子だったのですが、私の話を聞いて誰よりも表情が変わっていって、別れ際にこう言ってくれたんです。『お姉ちゃん、本当にありがとう。約束して。絶対ビッグになって、僕が自慢できる人になってね」。彼の言葉が、ずっと忘れられません。私が訪れた数ヵ月後、ハサンたちが住んでいるエリアが大火事に見舞われて、多くの人が亡くなりました。今はただ、ハサンが生きていてほしいと願うことしかできない。来年の春にバングラデシュに行くので、そのときに彼を探すつもりです」

支援は美化されるべきものではない。なぜなら、救えない命が山ほどあるから。サヘルさんの言葉は強い。「子どもたちの食べるものがない。手術をしなければ助からない。そんな話を聞いても、ただ『ごめんね』としか言えない。自分の手からたくさんの命がこぼれ落ちていく。精神的にも苦しいです。それでも、誰かの人生の一部になれていると感じる瞬間がある。それはこの上ないよろこびです。アナにしても、ハサンにしても」

憎しみの種を植え付けないために。母と交わした約束

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数年前、最愛の母に、がんが見つかった。これまで身を粉にして働いてきて、やっと生活が楽になってきた矢先のことだった。サヘルさんは、母が今までずっと我慢していたことを、これから少しずつ叶えてあげようと思っていた。なのに、どうして。神様はなぜこんなにも母を苦しめるのか。弱っていく母を支えるためにも、自分がしっかりしなければ。サヘルさんは必死に涙を堪え、日々の仕事に臨んでいる。そんな中、母と交わしたある約束があった。

「母が私に、自分が生きている間にイラクに行ってちょうだいと言ったんです。イラン・イラク戦争を経験した多くの人々は、互いに傷を負い、恨みを抱えて生きています。でも、戦争の犠牲者に国籍も人種も関係ない。このまま憎しみ合っていても、負の連鎖は終わらない。だからイラクの現状を見てほしいと。母の思いを果たすために、イラクとヨルダンを旅することにしました」

2019年10月、サヘルさんはまず、ヨルダンのザアタリ難民キャンプを訪れた。イラン政府が加担しているシリア内戦から避難した人々が暮らす、中東最大の難民キャンプだ。NPO法人「国境なき子どもたち(KnK)」によるキャンプ内の学校運営をサポートする活動の一環で、子どもたちに会いに行った。彼らはまぶしい笑顔で、イラン人であるサヘルさんを「ようこそ」と迎え入れてくれたという。

一方で、悔しい思いもした。キャンプの外には、内戦で一家の働き手を失った女性や子どもたちが共同生活をする母子センターがある。サヘルさんが日本からの物資を届けに行くと、センターのスタッフはサヘルさんの顔立ちが日本人ではないことに気付いた。そこで自身のバックグラウンドを告げると、まわりの空気が一変した。センター内で暮らしているのは、アサド政権による弾圧から逃れてきた人たち。彼女たちにとって、アサド政権を支援し、武器を輸送しているイランは「敵」なのだ。自分たちの国を破壊し、家族を殺した敵側に加担する国の人を、全員が歓迎できるわけではなかった。「あなたが悪いわけじゃない。だけど、ここを出て行った方がいい」現地スタッフのこの言葉に、サヘルさんは大きなショックを受けた。

「私はそれまで、イランという国が嫌いでした。イラン人であることが中学時代のいじめの原因になっていましたから。大学の学費を稼ぐためにエキストラの仕事をしていたときも、ほとんどがテロリスト役でした。中東=危険で怖い国。だからイラン人であることを表に出したくなかったのですが、自分の祖国が拒絶されたことはすごく悲しかった。この経験がターニングポイントになり、自分がもっと世の中に発信することで、イランのイメージを変えたいと思うようになりました。自分自身が電波塔になることで、偏った報道からは見えてこない人たちの存在を知ってもらいたいです」

支援する人たちのことを、心の中に持って生き続ける

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ヨルダンを訪れた後、イラク北部のドホーク県に住む、クルド人の少数宗派・ヤジディ教徒の女性たちにも会いに行った。住んでいた場所を過激派組織IS(イスラム国)に襲撃され、迫害を受けてきた人たち。男性は殺害され、多くの女性たちは性暴力を受け、連れ去られ、中には奴隷のように売り買いされた人もいた。

「ISの戦闘員にレイプされた女性たちのケアをしている施設を訪れたのですが、みんな生きる希望を失っていて、抜け殻同然でした。これだけ深く心に傷を負った人たちと話をするためには、私がずっと心に蓋をしていたことをさらけ出さなければ向き合えないと確信しました」

サヘルさんは過去に、親族から性的被害を受けていたことがある。これまで他のメディアではあまり語られてこなかったことを、今回の取材で聞かせてもらうことができた。サヘルさんの勇気に、心より敬意を表したい。

「私は8歳のときに母と来日しましたが、来日後も年に一度は祖父母に会うために、イランに帰っていた時期がありました。そのときはいつも伯母の家に泊めてもらっていたのですが、家に行くたびに、伯母の夫、つまり私の伯父にあたる人に、体を触られるようになりました。そのとき私はまだ子どもだったので、何をされているのかもわからなかったのですが、とにかく不快でした。相手は大人の男性です。体はすごく震えるけれど抵抗できず、されるがままでした。怖くて怖くて、母にも言えませんでした。
そういうことが数年続いて、私が12歳のとき、伯父にイタズラをされている現場を母が目撃したんです。衝撃を受けた母は、『なぜ黙っていたの』と真っ先に私を責めました。そのときに一度、心が粉々に砕け散りました。悲しみ以外に何もなかった。だって言えるわけがないじゃない。自分が何をされているのかもわからなかったのだから。ほかの親戚たちは、私が嘘をついていると信じてくれませんでした。『あの子は孤児だから、平気で嘘をつく』と。罪を犯した人は、今ものうのうと生きている。大きな被害にまでは至らなかったからよかったものの、心に受けた傷は長く引きずりました。何の心のケアも受けないまま、ただ生きていくのに精一杯で。生きる意味って何なんだろうと、何度も思いました。
ドホークの女性たちと会ったとき、自分が抱えている闇を打ち明けました。だからといって彼女たちの痛みが『わかる』とは決して言えない。でも、無理やり生かされている気持ちはすごくよくわかるんです。そう思い切って伝えたとき、彼女たちは私をそっと抱きしめてくれました。一番遠い国の、どん底にいる人たちが、誰よりもやさしく抱きしめてくれたんです。ああ、人ってこんなにもあたたかいんだなって。支援とは本来、誰かを助けるためのものですが、支援する側の私自身が一番救われていると感じた瞬間でした」

2023年春、サヘルさんは再びドホークを訪れた。「忘れずにいてくれてありがとう。私たちの存在を世界に伝えてくれてありがとう」と彼女たちは再びサヘルさんを抱きしめた。お金や物資を届けるだけが支援ではない。「相手のことを心の中に持って生きること、心で繋がることもまた、立派な支援」関わり続けるということが大切なアクションなのだと、サヘルさんは声を震わせながら訴えた。

人と人との縁をつなげる橋渡し役になりたい

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国外のみならず、日本国内でも誰かのために何かをしたい。サヘルさんは、児童養護施設で暮らす子どもたちをはじめ、日本で困っている人たちとも積極的に関わり、さまざまな支援活動を行っている。中でも10年ほど前から続けているのが、入管(出入国在留管理庁)施設に収容されている人の電話通訳のボランティアだ。彼らが施設内の診療所を利用する際に、電話を介した通訳を担っている。電話口から聞こえてくるのは、たくさんの悲痛な声。日本なら受け入れてもらえると聞き、一縷の望みを託して来たにもかかわらず、収容されたままいつ出られるのかわからないと嘆く人。診療所で処方された薬を飲み過ぎたせいで、幻覚や幻聴に苦しむ人。家族に会えず、連絡も取れず、もう死にたいと絶望する人。どれも耳を塞ぎたくなる話ばかりだという。

「私と母が日本にいられるようになったのは、私たちを信じ、救ってくれた日本の方がいたからでした。命からがら逃げてきても、誰にも信じてもらえず、最初から犯罪者のような目で見られることは、どんな人だって苦しいに決まってる。仮放免(正規の在留資格はないが、出入国在留管理庁に収容されている人を一時的に釈放すること)中の人たちは、就労もできず、医療保険に入ることもできません。そんな残酷なやり方ではなく、彼らをちゃんと働けるようにしてあげれば、できることがあると思うんです。彼らにも尊厳があるのですから。
SNSはネガティブな発言ばかりが目立ってしまうけど、同じ問題意識を持ち、応援してくれる人は世の中にたくさんいます。難民認定3回目以降の申請者の強制送還を可能にする改正入管法についても、あんなに大勢の人が声を上げてくれて、反対デモを起こしてくれた。それってすごいことだと思うんですよ。日本の中でも確実に変化は起きていて、優しさの輪は広がっていると思います。外国人である私も積極的に声を上げることで、おこがましいですが、ロールモデルとして見てもらえればいいなと思っています」

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サヘルさんが今注力しているのは、支援やボランティアに関わりたいと思っている人たちと、すでにアクションを起こしている人たちとの橋渡しをすること。参加型コミュニティ「さへる畑」を作って仲間を募り、難民・移民フェスに参加したり、児童養護施設の夏祭りで屋台を出し、子どもたちと交流したり、映画を作ったり。自身が当事者としてロールモデルになる以外のことにも目を向けている。

「児童養護施設で暮らす子どもたちや、仮放免中の人たち、路上生活をしている人たち、みんなそれぞれの場所で懸命に、でも孤立して生きています。そして、それらの孤立したコミュニティを支える人たちや団体もまた、点々と存在しているのが現状です。みんな一生懸命なんだけれど、これが1本のパイプで繋がれば、もっと循環するんじゃないかと思うんです。そうなるためにも今、人と人との縁をつなげる活動に重点を置いています。

支援に関われる場はたくさんあって、常に人手は求められています。もしあなたが誰かを助けたいと思っているのなら、一歩踏み出してみてほしい。そして、その関心をぜひ投票にも向けてほしい。選挙権を持たない外国人だけでなく、さまざまな理由で投票に行きたくても行けない日本人もたくさんいます。そのたった1枚の紙切れに、どれほど多くの人たちの思いが託されていることでしょう。『自分は何もできていない』と言う人も多いけれど、そんなことない。あなたにできることは、ちゃんとあるんです」

たくさんの傷を背負い、困難を乗り越えてきたサヘルさんから発せられる言葉ひとつひとつには、確かな重みと力があった。微笑みも涙も、強さも弱さも、包み隠すことなく提示し、まっすぐに向き合ってくれた。この世界は、メディアの報道やSNSの情報だけではわからないことであふれている。ほんの少しアンテナを伸ばし、新たな関わりを持つことで、自分が知らなかった価値観に触れられるかもしれない。視野が広がるかもしれない。自分が見たいもの、居心地がいいと感じるものだけに囲まれた、閉ざされた世界から、一歩踏み出してみよう。サヘルさんの話を聞いて、そう思うことができた。関心のスイッチは、きっとすぐそばにあるはずだ。

サヘル・ローズさんプロフィール画像
俳優サヘル・ローズさん

1985年イラン生まれ。幼少期を孤児院で過ごし、8歳で養母とともに来日。高校生の時から芸能活動を始める。主演映画『冷たい床』でミラノ国際映画祭の最優秀主演女優賞を受賞。俳優として映画や舞台、テレビなどで活躍する傍ら、人道支援活動にも熱心に取り組んでいる。アメリカで人権活動家賞を受賞。2022年、著書『言葉の花束 困難を乗り切るための“自分育て”』(講談社)を出版。

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