山崎まどかpresents “真似のできない女たち” モード編「スタイルを貫いた、4人の肖像」

文筆家・山崎まどかさんの著書『真似のできない女たち─21人の最低で最高の人生』(ちくま文庫)を読むと、女性の生き方はもっと自由でいいんだと感じ入る。並大抵ではない生涯を歩んだ先達は、おしゃれだって自己流。SPURのために番外編として、山崎さんがモードなアイコンを選出した。スタイリスト・飯島朋子さんがファッションを通じて彼女たちのスピリットに迫る

Barbara Hepworth / バーバラ・ヘップワース

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©JS Lewinski/Camera Press/アフロ

シンプルで実用的。さりげない着こなしに美学を宿した芸術家

彫刻家のバーバラ・ヘップワースは英国のモダン・アート界が生んだ、最も重要なアーティストとして近年存在感を増してきている。1920年代にイタリアで彫刻を学んだときに彼女の信条となったのが「素材への真実」。大理石でも、木材でも、ブロンズでも、直接ノミを当てて、素材が語りかけてくるものと自分が結びつく瞬間を待ち、そこからアイデアを切り出していった。バーバラの彫刻の特色は優雅な曲線とぽっかりとあいた穴。さまざまな形の彫刻があるがそのフォルムはみんなどこかやさしい。特に卵のような楕円形は彼女のお気に入りで「生涯をかけて探究していくのに十分な分野」だと語っている。

彼女の生涯の拠点となったのは英国南西部のコーンウォール州のセント・アイヴスだ。第二次世界大戦が勃発した後、2番目の夫で画家のベン・ニコルソンとともに移住してきた場所だったが、戦時中にさまざまなアーティストが疎開してきて、芸術家のコミュニティが形成されていった。夫婦はペンウィズ芸術協会を設立し、共同体の中心人物となっていく。

セント・アイヴスを愛した何よりの理由は、その自然の情景にあった。とりわけ断崖絶壁と海岸線が合わさった風景に魅せられて、彼女は野外で作業するようになる。光や空間も木や石と同じくらい彫刻家にとっては大事な素材なのだと語っている。気候や季節の変化を肌で感じて彼女の表現は研ぎ澄まされていった。

家庭生活も忙しい時期だった。前の結婚で授かった2人の子どもに加え、ベン・ニコルソンとの間に三つ子が生まれた。しかし、子育てが創作活動に支障をきたしたことはないという。彼女は何があっても毎日仕事をすることにしていた。「私はものごとに逆らいはしないの」。キッチンで何か焼けていたり、子どもが泣いていたら行って対処し、そうしたささいな日常のトラブルには気を取られずに作業に戻って没頭することができた。「作品の数は少なくなったかもしれないけれど、よりいいものができた」とバーバラは信じていた。

彼女の不運は、リーズ美術学校時代の同窓生であるヘンリー・ムーアと絶えず比較され、時に作品を取り違えられるところにあった。二人は友人で、ライバルであり、共に同じ技術を学び、時代の風を受けて彫刻における抽象的な表現に取り組んだ。二人がパリで仲睦まじく笑っている写真が残っている。しかしセント・アイヴス在住のバーバラと違って、ヘンリー・ムーアは常に美術界の中枢に近いところにいた。1948年に彼はヴェネツィア・ビエンナーレで国際彫刻賞を受賞。その2年後、バーバラがビエンナーレに参加して展示を行うと「ヘンリー・ムーアの弟子」として扱われてストレスを覚えたという。他の美術分野と同じく、そして力仕事であるからこそ余計に、彫刻の世界は男性が中心。彼女はそのことを理解していた。同じ抽象芸術でもヘンリー・ムーアの彫刻が人間的になっていくのに対し、野外での作業に没頭するバーバラの彫刻はより自然に近い形へと発展を遂げていった。バーバラの作品はムーアの華々しい業績と美術界での地位の陰に隠れがちだったが、近年は横並びの評価だと言っていい。

さらに最近では、アーティスト志向の若者たちの間でファッション・アイコンとして取り沙汰されることも少なくない。大きな素材を切り出す野外での作業に当たって、バーバラが好んだのが心地いいジャンプスーツ。ウェーブのかかったセミロングの髪にはスカーフが巻かれている。普段着のスタイルもその延長線上にあり、ゴムでウエストをマークしたスポーティなブルゾンにスラックスというコーディネートが目立つ。それはシンプルで実用的であるのと同時に彼女の美学を感じさせるさりげないスタイルで、リラックスした雰囲気がある。彼女の彫刻にも通じる自然さが、アーティストとしてのバーバラ・ヘップワースを語っている。

PROFILE

1903年、イギリスのウェスト・ヨークシャー生まれ。彫刻家。封建的な当時の世相と異なり、父親はバーバラの才能を生かすようにと教育を重視した。女子高等学校を卒業すると、奨学金を得てリーズ美術学校に入学。そこで彫刻家のヘンリー・ムーアと同窓に。比較されることの多かった二人は、モダニズム彫刻の歴史を切り開いていった。1975年没。

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コート¥757,900・セーター¥174,900・スカート¥399,300・帽子¥66,000・ローファー¥207,900/ザ・ロウ・ジャパン(ザ・ロウ) ソックス/スタイリスト私物

アーティストがこだわった「手ざわり」に導かれて

「彫刻家バーバラ・ヘップワースは自身の手を使って作品を作り出す人。きっと手ざわりや素材に対してもこだわっていたのではないかと考えました。ポートレート写真の品のある顔立ちからも伝わってきますが、着心地のいい服を大切に着ていたのではないでしょうか」と飯島さん。過去のポートレートや資料から分析し、選んだのは上質な素材使いで知られるザ・ロウのノーカラーコート。稀少なベビースリカシミヤを使用しており、まるでブランケットのような肌ざわりでやさしく体を包み込む。ダブルフェイスのコートはノーブルなグリーン、ベルテッドのスカートは落ち着いたブラウンを。コートはあえて着崩して、自分なりのフィット感を探したい。

Shirley Clarke / シャーリー・クラーク

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©Mary Evans Picture Library/アフロ

自由と独立を目指した、アメリカ・インディ映画界のパイオニア

ドラッグの売人を待つミュージシャンやその他の男たちをカメラが追う"ドキュメンタリー"という体裁を取った『ザ・コネクション』(’61)や、ハーレムでギャングに憧れる黒人不良少年の物語である『クール・ワールド』(’63)。米国におけるアヴァンギャルド/インディ映画のパイオニアの一人であるシャーリー・クラークの代表作だが、日本で観た人は少ない。とてもクールな映像作家で、光を当てたい存在だ。

ニューヨークのグリニッジビレッジを根城にして、マヤ・デレンやジョナス・メカスといった仲間に囲まれ、黒人文化とジャズをこよなく愛したシャーリーだったが、もともとはマンハッタンの高級住宅地パーク・アベニューの屋敷に住むお嬢様だった。実業で財を成した父親は専制君主的で、3人の娘たちを暴力で支配しようとしたという。娘たちはむしろ反抗心を育み、何とかして家から逃れようと道を探った。シャーリーの怒りと情熱のはけ口はダンスにあった。彼女は大学で舞踏を学び、マーサ・グレアムのダンス教室で修業して、モダンダンスの世界にのめり込んでいく。二つ下の妹エレイン・ダンディは俳優としてパリに渡り、のちにヒット作を出す作家になる。

シャーリーとカメラの出合いは偶然だった。彼女は24歳で実家から逃れるように結婚するが、ずっとたってからそのときのお祝い品を整理していて、その中に偶然に映像カメラを見つけた。最初、彼女は夫に手伝ってもらって、ダンス・フィルムを撮っていた。自らもダンサーだった彼女の撮るユニークな短編映画は話題になった。ハンス・リヒターに学び、彼女は映像作家として花開いていく。1959年にはマンハッタンの高層ビルの建造に迫ったドキュメンタリー『スカイスクレイパー』で早くもアカデミー賞短編実写賞を受賞している。

長編の劇映画の題材を探していたときに、妹エレイン・ダンディがすすめてきたのがオフ・ブロードウェイで話題の劇『ザ・コネクション』だった。このユニークな映画を撮っていたとき、彼女はドラッグ・ディーラー役の黒人俳優カール・リーと恋に落ちる。シャーリーは夫と離婚して彼と一緒になるが、ヒップな俳優として有名なこの男は一方でドラッグの売人でもあった。シャーリー・クラークは長年、ドラッグの依存から抜け出せず苦しむことになる。

リハビリ後、移住したチェルシー・ホテルにロジャー・コーマンが彼女を訪ねてやってきた。B級映画の監督/プロデューサーとして知られ、マーティン・スコセッシやフランシス・F・コッポラといった才能を発掘してきた彼が、シャーリーに白羽の矢を立てたのだ。しかし二人の話はすれ違い、彼女がハリウッドで映画を撮る機会はなかった。

アニエス・ヴァルダの映画『ライオンズ・ラブ』(’69)はこの出来事が基になっているのだろう。作品でシャーリー・クラークは、ハリウッドについての映画を撮りに来る"シャーリー・クラーク"その人を演じている。しかし劇中の彼女は映画会社に最終編集権を奪われ、自殺を考える。このシーンが面白い。演じている場面に疑問を持ったシャーリーが「こんなのやってられない!」と言って、カメラの向こうにいたアニエス・ヴァルダと大げんかになるのだ。ここだけドキュメンタリーで、ストーリーをはみ出して二人はやり合い、一時はアニエスが代役を務めると言ってシャーリーの衣装を身につけるところまでいくが、最終的に仲直りして抱き合う。インディペンデントの女性映画人同士の熱い友情を捉えた、滅多にない映像である。

シャーリー・クラークは新しいものが好きで、ビデオカメラにも登場と同時に興味を示し、オーネット・コールマンのドキュメンタリーの撮影に使用している。型にとらわれない彼女らしい。ジョナス・メカスの短編映画にボーラーハットをかぶり、落ち着きのない少年のようにジョン・レノンの周囲で動き回る彼女の姿がある。映像の世界でもどこか異邦人で、特別な存在だった。ボーイッシュな都会のボヘミアンは、生涯にわたって自由と独立、自分だけの表現を追いかけていたのだ。

PROFILE

1919年、アメリカ・ニューヨーク生まれ。映画監督。ポーランド系移民の父と大富豪のユダヤ系製造業・発明家の娘を母に持つ。クラークは幼い頃からダンスを学び、プロとして活躍。1953年に映画『太陽のダンス』の舞台シーンに脚色で加わったことから、映画監督の道を志す。ニューヨークの独立系長編映画運動の出現の一端を担っていく。1997年没。

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ジャケット¥330,000・シャツ¥88,000・スカート¥495,000・ネクタイ¥63,800・ブーツ〈ヒール7.5㎝〉¥231, 000・タイツ¥34,100・イヤリング¥132, 000/グッチ ジャパン(グッチ)

60年代NYをタフに生き抜く監督のワードローブ

ピークドラペルやビッグショルダー、赤いレザースカートの艶。アイデンティティの輪郭を際立たせるディテールがちりばめられたグッチの新作ルックをチョイス。「シャーリー・クラークは60年代からビデオカメラを手に取り、自ら映像を撮り始めたインディムービーの先駆者。でも、当時の映画制作の現場は男性優位な時代だったのでは、と想像したんです。そんな環境に負けず表現していくのなら、こんな力強いジャケットが必要だったのではないでしょうか。パワーショルダーのジャケットは、男性と対等にわたりあっていくために、支えになってくれるような存在感があります」(飯島さん)。

Kazumi Yasui / 安井かずみ

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©Kodansha/アフロ

歌謡曲黄金期を駆け抜けた作詞家の、美しい"生"

1960年代から70年代の歌謡曲の世界に燦然と輝く作詞家がいる。安井かずみ。仲間内の愛称は「ZUZU」。沢田研二の「危険なふたり」、辺見マリの「私生活」、アグネス・チャンの「草原の輝き」……。彼女の手がけたヒット曲は枚挙にいとまがない。黄金期の歌謡曲のメロディに一度聞いたら忘れられないようなフレーズを乗せて、安井かずみの名前はヒットチャートを華やかに彩った。

しかし、安井かずみは歌手たちの裏方ではなかった。彼女自身がスターで、主人公だったのである。六本木の街で華麗に夜遊びをする、スタイリッシュな恋多き女。それが彼女のイメージだった。安井かずみの書く歌詞は絵空事ではなく、その向こうに本当のロマンスを感じさせた。はかない恋や、残酷な別れ、ままならぬ想い、都会を生きていく女のしたたかさ、しなやかさ。でもその"実像"もまた、彼女が演じていた役柄だったのかもしれない。そう思ってしまうほど、本人のエッセイや友人たちの証言から浮かび上がる安井かずみの姿はかっこよすぎる。

彼女の根城は当時のセレブリティや文化人が集まる六本木の伝説的なレストラン「キャンティ」。安井かずみは若い頃からここに出入りして、マダムである川添梶子からあらゆることを教わったという。20代はじめ、いかにも女子学生らしいファッションだった彼女が、サンローランやシャネルのオートクチュールを注文するようになったのは、梶子の影響だった。そのとき彼女はまだ文化学院の学生で、アルバイトで訳詞を手がけ始めたばかり。それが作詞を始めるようになって、すぐに頭角を現していく。

当時の親友は俳優の加賀まりこ。二人は軽井沢の万平ホテルの近くで初めてお互いの姿を認めた。そのとき、加賀まりこは乗馬をしていて、安井かずみのほうはスポーツカーに乗っていた。このドラマティックな邂逅について彼女は「クロード・ルルーシュ風の出会い」だったと書いている。フランス語と英語、語学に堪能な安井かずみと加賀まりこは二人でよくヨーロッパを旅した。海外旅行がまだ遠い憧れだった時代、二人は日本人などほとんどいないサンモリッツのスキー旅行に出かけていった。最初の結婚が破綻して、パリから日本に帰ってきた安井かずみを自分の住む川口アパートメントに迎え入れたのも加賀だった。もう一人の親友はデザイナーのコシノジュンコ。1967年に彼女がオープンしたブティックに安井かずみは足繁く通ったという。

彼女の華麗な交友関係は、たった一枚、歌手として残したアルバム、その名も『ZUZU』からもうかがえる。かまやつひろしや日野皓正といったミュージシャンに加えて、俳優の石坂浩二まで作曲家として参加しているおしゃれでアンニュイなボサノヴァのレコードだ。

安井かずみは1976年、ミュージシャンの加藤和彦と運命的な出会いを果たす。二人は翌年に結婚。売れっ子だったかずみは流行歌の作詞家をやめて、夫のアルバムのために尽力するようになる。バハマ、パリ、ベルリン、ニューヨーク。世界中のスタジオをジェットセットのように渡り歩いて作られたこの頃の加藤和彦のソロアルバムは、コンセプトを含めてすべてが二人の共同作業であり、その詞は安井かずみの美学が集結したものだった。彼女はいつもレコーディングの場所となる都市の歴史や文化を徹底的にリサーチして、作詞にのぞんだ。夫婦はファッションとレストランが好きで、求道的なスタイリストぶりも似通っていた。 「確かに、いつかある日、死ぬだろうと考えている。/その日まで願わくは、美しい"生"でありたい。これは欲望だろうか?」。彼女は1974年に出版されたエッセイ集※1でそう書いている。55歳の若さでがんによって亡くなる前、最後の頃に書いた日記にはこんなフレーズが残されていた。「金色のダンシングシューズが/散らばって/私は人形のよう」※2。彼女は自分のドラマの脚本家で、演出家で、主演俳優だった。美しい幕切れの台詞を用意してから、この世を去ったのだ。

PROFILE

1939年、神奈川県横浜市出身。作詞家、訳詞家、エッセイスト、歌手。裕福な家庭に育ち数々の教養を学ぶ。フランス語の訳ができる語学力を買われてアルバイトで訳詞をしたことがきっかけとなり作詞家に。海外旅行を愛し、美食家としても知られ、優雅なライフスタイルを紹介するエッセイストとしても人気を博した。1994年に肺がんのため死去。

※1『愛のめぐり逢い』(大和書房) ※2『ありがとう!愛 ガン告知・夫婦愛・信仰─心の軌跡を綴る最後の日記』(大和書房)

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コート¥253,000・レザービブ¥118,800・スカート¥149,600・ネックレス¥140,800・グローブ¥79,200・ブーツ¥156,200/ドリス ヴァン ノッテン 胸につけたコサージュ・ストッキング/スタイリスト私物

私は私の人生の主人公。都会を生き抜く服

日本の文化人たちがこぞって集まっていた六本木のレストラン「キャンティ」の常連でもあった安井かずみ。「社交的な彼女のポートレートを眺めていると、主張のあるメイクアップが目に飛び込んできました。当時の日本の勢いや彼女の力強い雰囲気も相まって、彼女ならヒョウ柄をいとも簡単に着こなすはずと妄想。実際の彼女はモダンな服を好んでいたようですが、誰かのスタイルに憧れるとき、単なる外見だけではなくて内面的なものからコーディネートのヒントを得ることもあります」(飯島さん)。薄く中綿を入れたキルティングのレオパードコートは華やかだけれど、どこかシック。主張の強い小物と合わせて、思いきりドレスアップする日にぜひ。

Joan Didion / ジョーン・ディディオン

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©ZUMA Press/アフロ

唯一無二の視点で人生と心情を紡いだ、類いまれなエッセイスト

2021年末に亡くなったジョーン・ディディオンは、アメリカの文学界でも特異な地位にある作家だった。寡作だが小説やノンフィクション、映画の脚本など幅広い分野で活躍した書き手だというプロフィールでは、ジョーンのことを表しきれない。彼女は、言ってみれば"ジョーン・ディディオン"というジャンルに属する唯一の作家なのだ。

20代のときはニューヨークで雑誌『ヴォーグ』のライターとして活躍したが、彼女が本当に"ジョーン・ディディオン"になったのは、60年代半ば、夫とともにロサンゼルスに移住してからといえる。彼女はそこでチャールズ・マンソン事件やヘイト・アシュベリーにおけるヒッピー・ムーヴメントなどについて書いたが、その文章にはただのレポートを超えたものがあった。観察者の視点と、当事者としてここにいるという臨場感。そして未来からその出来事を振り返るような、不思議な感覚。そこにある"ノスタルジーへの予感"が彼女の文章を特別なものにしていた。

70年代半ばに『ローリング・ストーン』誌の駆け出し記者だった頃、映画監督のキャメロン・クロウは編集長に「対象との距離の取り方をジョーン・ディディオンに学べ」と言われて、彼女の初のノンフィクション『ベツレヘムに向け、身を屈めて』を渡されたというが、ジョーンと同じくカリフォルニアのサクラメントの出身であるグレタ・ガーウィグをはじめ、今もジョーンを手本とする多くの書き手が世に出ている。

文章と同じく、ライフスタイルやファッションもクールネスそのものだ。一時期彼女のLAの家に居候していた作家のスザンナ・ムーアは、冷蔵庫からよく冷えたコーラを取り出して、それを朝食代わりにしてタイプライターに向かうジョーン・ディディオンを目撃したという。60年代の彼女のファッションはボヘミアンスタイルで、ミニマルで洗練されている。小鳥のように小柄で華奢なのに、煙草を片手にストンとしたジャージ素材のワンピース一枚で愛車のコルベットの前に佇むこの頃の彼女のポートレートは、女神のような威厳に満ちている。老婦人になってから、ユルゲン・テラーの撮影でブランドのキャンペーンに登場したのも納得のスタイリッシュさである。

彼女は自分の人生のドキュメンタリー作家だった。悲しい出来事が起きても感傷に浸らず、かつ自分の心から目を逸らさずに、感じていることの本質を見極めようとしていた。2003年、夫のジョン・グレゴリー・ダンを心臓発作で亡くし、続けて養女クィンターナを亡くした彼女は、自分の人生におけるその最もつらい日々について書いた。2005年に出版された『悲しみにある者』は全米で百万部以上の売り上げを記録するベストセラーとなった。波のように押し寄せる悲しみに溺れるのではなく、その波に乗り、クロールで海を渡っていくかのようなジョーン・ディディオンの文章に、多くの人が心打たれたのだ。

続く『さよなら、私のクィンターナ』(2011)では、娘の死とともに自分の老いについても書いた。死の予感を、夏至の前後に訪れる、夕暮れ後の青い光が支配する時間帯"ブルーナイツ"に託している。その静かな青の光は生命の盛りを象徴するもので、「褪せていく輝きと正反対のものだが、同時にそれへの警告でもある」と語る。ジョーン・ディディオンはこの時点で、すでに自分の人生を終えて今までのことを慈しむような視点を手に入れている。ハリウッドのフランクリン・アベニューにあった家からマリブの海辺に越し、1960年代の日々を振り返って書いたときのように。生命の終わりと親しい人を亡くした寂寥感について触れた文章にもまた、涼やかな海風と夏の夕暮れ後の淡い輝きのような、唯一無二の美しさがある。

PROFILE

1934年、アメリカ・サクラメント生まれ。カリフォルニア大学バークレー校在学中に、雑誌『ヴォーグ』が主催するエッセイコンテストで優勝し、卒業後にヴォーグで2年間働く。在籍中に小説『Run, River』を出版。翌1964年には結婚しヴォーグを退職。その後は数々の雑誌、新聞に寄稿し、小説やドキュメンタリーなどを執筆した。2021年没。

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ドレス¥330,000/サンローラン クライアントサービス(サンローラン バイ アンソニー・ヴァカレロ) バングル(右手、上から1〜4本目)¥6,930・¥4,290・¥5,390・¥3,850/tsumugu 同(5本目)¥35,200/FRONT 11201 バングル(左手、上から4点)¥5,940・¥5,940・¥5,940・¥5,390/tsumugu 同(5、6本目)¥19,800・¥26,400/FRONT 11201

自分のことを理解するほどに削ぎ落とされていく

「Netflixのドキュメンタリー『ジョーン・ディディオン:ザ・センター・ウィル・ノット・ホールド』にインスパイアされました。華奢なシルエットを美しく見せる、長いレングスのドレスがとびきり似合っていたんです。手を動かしながら、少し神経質な面持ちで話す姿にも惹かれましたね」(飯島さん)。選んだのはサンローランらしいサファリルックのディテールをロング&リーンなシルエットと組み合わせたブラックドレス。重厚感のあるウール素材で威厳のある佇まいに誘う。飯島さんが印象的と語る手もとはエクストリームなボリュームのバングルを重ねづけて表現。

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山崎まどか

コラムニスト・翻訳家。著書に『優雅な読書が最高の復讐である』(DU BOOKS)など、訳書に『ありがちな女じゃない』(レナ・ダナム、河出書房新社)、『カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ』(サリー・ルーニー、早川書房)などがある。Instagram: @madokayamasaki

Styling

飯島朋子

スタイリスト。神奈川県出身。ファッションや雑誌など、好きなものに携わることを目指し、スタイリストを志す。金子夏子さんに師事し、2000年に独立。SPURをはじめとしたモード誌のほか、広告やブランドカタログなど幅広く手がける。Instagram: @iijiytomokoiijima