「とにかく、知っていただくことがいちばん大切です」。日本原水爆被害者団体協議会(以下、被団協)の事務局次長、和田征子(わだまさこ)さんは言う。1943年、長崎県生まれの82歳。被爆した当時の記憶はない。それでも、母の被爆体験を語り継ぐ活動に半生を捧げてきた。
「とにかく、知っていただくことがいちばん大切です」。日本原水爆被害者団体協議会(以下、被団協)の事務局次長、和田征子(わだまさこ)さんは言う。1943年、長崎県生まれの82歳。被爆した当時の記憶はない。それでも、母の被爆体験を語り継ぐ活動に半生を捧げてきた。
「ごみのように焼かれるために生まれてきたんじゃない」母・静子さんの被爆体験
1945年8月9日。1歳10ヵ月だった和田さんは、爆心地から2.9キロ離れた長崎市今博多町の自宅に、母と祖父と3人でいた。朝から鳴っていた空襲警報が解除され、母の静子さんは昼食の準備をしていた。
午前11時2分、「ドーン」というものすごく大きな音を静子さんは聞いた。金比羅山の向こう側、長崎市松山町の上空約500mで原爆が炸裂した音だった。山の影になった和田さんの家は、壊滅的な被害からは免れた。だが爆風を受け、静子さんが気づいた時には家じゅうのものがこっぱみじんになっていた。
「土壁が落ち、ガラスや障子や木片など粉々になったものが、家の中に一尺(約30cm)ほど積もったそうです。当時24歳だった母は、どうやってひとりで片付けたんだろうと思うのですが、具体的なことを聞かずじまいでした。母が生きていた時にもっとちゃんと聞いておけばよかったなと思います」
原爆が落とされた直後、家の外には、通りの向こう側が見えなくなるほどオレンジ色の煙が広がった。しばらくすると山道から、男性か女性かもわからない、身につけているものがほとんどないような人たちが、よろめきながらぞろぞろと歩いてきた。みんなチョコレートのような色で、髪の毛がツノのように逆立っていた。
家の裏庭に井戸があり、そこにたくさんの負傷した人たちが水を求めて集まってきた。静子さんは幼い和田さんをおぶって、その人たちの傷を洗い流した。「どれだけの人の傷を洗ったかわからんよ」。日頃からためていた古布を包帯代わりに使って、懸命に手当てをした。
家の隣は、空襲時の延焼を防ぐ建物疎開に指定され、取り壊されて空き地になっていた。そこに、ごみ車に山積みにされた遺体が毎日運び込まれ、朝から晩まで燃やされた。毎日その光景を目の当たりにしていた静子さんは、次第に人間的な感情を失っていった。黒焦げになった手足がごみ車から飛び出しているのを見ても、何も感じなくなった。
「母は毎年8月になると『あのにおいが戻ってくる』と言っていました。それぐらい強烈なトラウマだったのでしょう。『人はごみのように焼かれるために生まれてきたんじゃない』と話していました」
8月15日。静子さんは負傷した人の治療を手伝うため、救護所となっていた長崎経済専門学校(現・長崎大学経済学部)に向かった。講堂の床いっぱいに、ひどい火傷を負った人たちが寝かされていた。静子さんは医師の後ろから消毒液を持っていく係だったが、あまりの凄惨な状況に気絶し、意識が戻った時には自分も一緒に寝かされていた。
「こげん看護婦はいらん」。医師にそう言われた静子さんは、負傷した人の体を這ううじ虫を、ほうきで掃き取る仕事にまわされた。「親指くらいにまで成長したうじ虫をあんなに大量に見たのは、あの時が最初で最後」。生前、静子さんはそう話していた。玉音放送が流れた日だったが、終戦を意識することはなかった。
9月12日、原爆開発副責任者のトーマス・ファーレルが記者会見を開き、「広島・長崎では、死ぬべき者は死んでしまった。放射能の影響を受け、苦しんでいる者は誰もいない」と発言した。これによって救護所は閉鎖され、被爆者は日本政府からもアメリカ政府からも見捨てられた。
9月19日、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)がプレスコードを発令した。占領軍批判につながる原爆報道が制限されたため、原爆による放射能が体にどういった影響を与えるかなどの情報はいっさい入ってこなかった。「外傷がなくても、皮膚に紫色の斑点が出て亡くなる人がたくさんいました。正しい情報がないために、『放射能はうつる』という差別や偏見も出てきました」と和田さんは言う。
何の手当てのすべもなく、何にもわからないまま、多くの人が、ただ苦しみながら死んでいった。1945年12月までに、長崎で7万人、広島で14万人が、原爆の被害を受けて亡くなった。
1943年長崎市生まれ。1歳10か月の時、爆心地から2.9キロの自宅で被爆。2015年に被団協の役員となり、母の体験をもとに国内外で証言を続ける。核兵器をなくす日本キャンペーンの副代表理事でもあり、日本政府に対して核兵器禁止条約の批准に向けた働きかけを続けている。



