2026.04.28

「核兵器を作ったのは人間、なくせるのも人間」被団協・和田征子さんの願い

「とにかく、知っていただくことがいちばん大切です」。日本原水爆被害者団体協議会(以下、被団協)の事務局次長、和田征子(わだまさこ)さんは言う。1943年、長崎県生まれの82歳。被爆した当時の記憶はない。それでも、母の被爆体験を語り継ぐ活動に半生を捧げてきた。

「とにかく、知っていただくことがいちばん大切です」。日本原水爆被害者団体協議会(以下、被団協)の事務局次長、和田征子(わだまさこ)さんは言う。1943年、長崎県生まれの82歳。被爆した当時の記憶はない。それでも、母の被爆体験を語り継ぐ活動に半生を捧げてきた。

INDEX
被団協事務局次長の和田征子さん

「ごみのように焼かれるために生まれてきたんじゃない」母・静子さんの被爆体験

1945年8月9日。1歳10ヵ月だった和田さんは、爆心地から2.9キロ離れた長崎市今博多町の自宅に、母と祖父と3人でいた。朝から鳴っていた空襲警報が解除され、母の静子さんは昼食の準備をしていた。

午前11時2分、「ドーン」というものすごく大きな音を静子さんは聞いた。金比羅山の向こう側、長崎市松山町の上空約500mで原爆が炸裂した音だった。山の影になった和田さんの家は、壊滅的な被害からは免れた。だが爆風を受け、静子さんが気づいた時には家じゅうのものがこっぱみじんになっていた。

「土壁が落ち、ガラスや障子や木片など粉々になったものが、家の中に一尺(約30cm)ほど積もったそうです。当時24歳だった母は、どうやってひとりで片付けたんだろうと思うのですが、具体的なことを聞かずじまいでした。母が生きていた時にもっとちゃんと聞いておけばよかったなと思います」

原爆が落とされた直後、家の外には、通りの向こう側が見えなくなるほどオレンジ色の煙が広がった。しばらくすると山道から、男性か女性かもわからない、身につけているものがほとんどないような人たちが、よろめきながらぞろぞろと歩いてきた。みんなチョコレートのような色で、髪の毛がツノのように逆立っていた。

家の裏庭に井戸があり、そこにたくさんの負傷した人たちが水を求めて集まってきた。静子さんは幼い和田さんをおぶって、その人たちの傷を洗い流した。「どれだけの人の傷を洗ったかわからんよ」。日頃からためていた古布を包帯代わりに使って、懸命に手当てをした。

家の隣は、空襲時の延焼を防ぐ建物疎開に指定され、取り壊されて空き地になっていた。そこに、ごみ車に山積みにされた遺体が毎日運び込まれ、朝から晩まで燃やされた。毎日その光景を目の当たりにしていた静子さんは、次第に人間的な感情を失っていった。黒焦げになった手足がごみ車から飛び出しているのを見ても、何も感じなくなった。

「母は毎年8月になると『あのにおいが戻ってくる』と言っていました。それぐらい強烈なトラウマだったのでしょう。『人はごみのように焼かれるために生まれてきたんじゃない』と話していました」

8月15日。静子さんは負傷した人の治療を手伝うため、救護所となっていた長崎経済専門学校(現・長崎大学経済学部)に向かった。講堂の床いっぱいに、ひどい火傷を負った人たちが寝かされていた。静子さんは医師の後ろから消毒液を持っていく係だったが、あまりの凄惨な状況に気絶し、意識が戻った時には自分も一緒に寝かされていた。

「こげん看護婦はいらん」。医師にそう言われた静子さんは、負傷した人の体を這ううじ虫を、ほうきで掃き取る仕事にまわされた。「親指くらいにまで成長したうじ虫をあんなに大量に見たのは、あの時が最初で最後」。生前、静子さんはそう話していた。玉音放送が流れた日だったが、終戦を意識することはなかった。

9月12日、原爆開発副責任者のトーマス・ファーレル氏が記者会見を開き、「広島・長崎では、死ぬべき者は死んでしまった。放射能の影響を受け、苦しんでいる者は誰もいない」と発言した。これによって救護所は閉鎖され、被爆者は日本政府からもアメリカ政府からも見捨てられた。

9月19日、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)がプレスコードを発令した。占領軍批判につながる原爆報道が制限されたため、原爆による放射能が体にどういった影響を与えるかなどの情報はいっさい入ってこなかった。「外傷がなくても、皮膚に紫色の斑点が出て亡くなる人がたくさんいました。正しい情報がないために、『放射能はうつる』という差別や偏見も出てきました」と和田さんは言う。

何の手当てのすべもなく、何にもわからないまま、多くの人が、ただ苦しみながら死んでいった。1945年12月までに、長崎で7万人、広島で14万人が、原爆の被害を受けて亡くなった。

「話を脚色しない」と心に刻んで

談笑する被団協事務局次長の和田征子さん

和田さんは、子どもの頃から静子さんの被爆体験を聞いて育った。ただしそれは意識的にしたことではなかった。友人や近所の人が家を訪ねてきた時、静子さんが思い出したように断片的に話していたことが、自然と耳に入っていた。

何も覚えていない自分に、原爆のことを話す資格があるのだろうか。和田さんはずっと、記憶がないことへのうしろめたさを感じていた。それでも話さなければならないと思うようになったのは、カリフォルニアでの日系人コミュニティとの出会いがきっかけだった。

結婚して長崎を離れた和田さんは、夫の転勤のため渡米し、1977年~82年の5年間をカリフォルニア州で暮らした。現地の教会で日系の人びとに出会い、彼らが過酷な経験をしてきたことを知った。

「戦時中に敵国民とみなされ、収容所に強制的に入れられた方や、日系人部隊として前線に送り出された方のご遺族もたくさんいらっしゃいました。大変な苦労をされてきた方々に対して、米軍が落とした原爆で被害を受けたという話はできませんでした。アメリカにいた頃は、自分が被爆者だと言えなかったんです。でも、それではダメだと思いました。原爆のことを話そうという気持ちになったのは、日本に戻ってきてからです」

帰国後、東京都大田区に住み始めた和田さんは、区の原爆被害者の会(大友会)の会員になった。そこで被爆証言集を出すことになり、静子さんの体験を文章にまとめた。しかし、完成原稿を読んだ静子さんの感想は、「こげんもんじゃなか」のひと言。「私がいくら想像して書いても、あの時の光景は言葉にできない」と痛感した。

記憶のない自分が語っていいのだろうかという思いは今も消えない。それでも、母から繰り返し聞いた話を徐々に人前で話すようになった。「母から聞いたこと以外は話すまい」。脚色しないことは、和田さんの証言活動における鉄則となった。

その後横浜に移り住み、神奈川県原爆被災者の会に入会。2015年、会の代表としてニューヨークの国連本部で開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議に参加し、被団協の事務局次長に推薦された。

被団協の一員として、核兵器廃絶を訴える

「核兵器を作ったのは人間、なくせるのも人の画像_3

2024年のノーベル平和賞の授賞式の後、オスロで撮影した被団協メンバーと応援団の集合写真(和田さん提供)

被団協は、今年で結成70周年を迎える。「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」。設立時に掲げた誓いは変わらない。核兵器廃絶と被爆者への国家補償を訴え、活動を続けてきた。2024年にノーベル平和賞を受賞した際のスピーチで、代表委員のひとりの田中熙巳さんは力を込めてこう述べた。「日本政府は、原爆で亡くなった死者に対する償いを全くしていない、という事実を知っていただきたい」

被団協の一員として、また英語で証言できる数少ない被爆者として、和田さんは82歳になった今も国内外で奔走する日々を送る。世界各地で開催される国際会議やイベントでの講演、核兵器廃絶を求める国際署名運動、月に一度発行される被団協新聞の編集、慣れないSNSでの発信、活動内容は多岐にわたる。

忘れられないのは、2017年7月7日。核兵器の非人道性を根拠に全面的に違法とする核兵器禁止条約(TPNW)が、122ヵ国の賛成で採択されたことだ。核廃絶を求め続ける被爆者の努力が世界を動かし、新たな国際条約に結実した。和田さんはその日のことをこう振り返る。

「私たち被団協は、TPNWを作ってくださいと長年にわたり国連にお願いしてきました。でも核保有国の力で押し返され、歯牙にもかけてもらえなかった。だから7月7日に採択された時は、大きな鉄の扉がギィッと音を立てて開いたように感じました。TPNWの前文には『核兵器の使用による犠牲者(ヒバクシャ)ならびに核兵器の実験による被害者にもたらされた受け入れがたい苦痛と被害を心に留める』とあります。先輩方の長年の努力がやっと形になったんだなと思いました。条約が採択された時、私は日本にいたのですが、国連でみなさんが拍手して喜んでいらっしゃるのをパソコンの画面越しに見て、涙が出ました」

しかし、現実は厳しい。TPNWには核保有国(アメリカ、イギリス、中国、フランス、ロシア)をはじめ、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮などは加盟していない。アメリカの「核の傘」に頼る日本も、唯一の被爆国でありながら背を向けたままだ。日本政府はTPNW締約国会議へのオブザーバー参加も3回連続で見送っている。

「核兵器の非人道性は認める。しかし今の世界を取り巻く環境を考えると、大事なのは核保有国を認めた上で拡散防止と削減を目指すNPTであるというのが日本政府の主張です」和田さんは表情を硬くする。

同情ではなく、共感して

談笑する被団協事務局次長の和田征子さん

核兵器も戦争もない、平和な世界の実現を。和田さんたちの願いとは裏腹に、世界では国際法違反の侵略や武力紛争が拡大し、各地で核抑止力を求める声が大きくなっている。日本でも「核兵器を保有すべきだ」という主張が、官邸幹部から出てきているような状況だ。

2026年2月の衆議院議員選挙で、自民党が圧勝したことは記憶に新しい。高市政権は、非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)の見直しに意欲を示し、「国家安全保障戦略」を含む安保3文書を年内に改定すると表明した。和田さんは暗澹たる思いを吐露する。

「世界を見渡せば、核兵器も戦車もごまんとある。そして今、日本政府は開きかけた核廃絶への扉を閉めようとしている。70年間、被団協が訴え続けてきたことが、この1年で水泡に帰するのではないかと危惧しています。非核三原則は、日本が守るべき『国是』です。世論を変えるためにも、諦めずに声を上げていかなければという思いです」

今こそ被爆者の声を聞いてほしい。和田さんはそう訴える。

「私がお願いしているのは、聞いてください、知ってください、学んでくださいということです。そして、被爆者の話に同情するのではなく、共感していただきたい。自分ごととして何ができるかを考え、行動に移していただきたいのです。昨年末、長崎の母校の生徒たちと話をする機会がありました。ひとりの生徒が、サッカーを通じて海外の人たちと交流したことで平和活動に興味を持つようになったと話してくれました。どんなきっかけでもいいので、自分の好きなことや興味関心のある分野から始めてみてください」

核兵器をつくったのは人間。そうであれば、なくすことができるのも人間だと和田さんは言う。被爆者の平均年齢は86歳。私たちは、原爆で苦しんだ方々の生の声を聞くことのできる、最後の世代だ。私たちが預かった被爆者の思いを、今後どのように受け継いでいくべきかが、今、問われている。

和田征子さんプロフィール画像
日本原水爆被害者団体協議会 事務局次長和田征子さん

1943年長崎市生まれ。1歳10か月の時、爆心地から2.9キロの自宅で被爆。2015年に被団協の役員となり、母の体験をもとに国内外で証言を続ける。核兵器をなくす日本キャンペーンの副代表理事でもあり、日本政府に対して核兵器禁止条約の批准に向けた働きかけを続けている。