"他者の靴を履く足"※を鍛えることこそ、自分の人生を自由に歩む原動力となる! 真面目な日本女性に贈る、新感覚シスター「フット」談
※ ブレイディさんの息子が、他者の感情や経験などを理解する能力である"エンパシー"のことを、英国の定型表現から「自分で誰かの靴を履いてみること」と表現。著作内のこのエピソードが多くの反響を呼び、社会現象となった。
結婚指輪の対義語ができたらしい。ストレートに離婚指輪だ。誰がそんなことを考え出したのかは知らないが、英国版『ヴォーグ』誌がすでに記事にしているので、じきに「イン・ヴォーグ」(流行)になるのは間違いない。
アヌーシュカ・デュカスのロンドンのブティックでは、3年前から「離婚指輪パーティ」が行われているそうで、離婚専門弁護士やその依頼人たちが訪れているという。離婚届に署名したことや、結婚指輪や婚約指輪の石や台座をリメイクすることに祝杯を挙げるのだ。離婚という、一般的には暗く悲しいイメージの出来事を、祝杯を挙げるべき人生の門出へと捉え直しているのだ。また、こうした風潮は宝石やジュエリーの再利用でもあり、リサイクリングのトレンドに合致しているともいえる。
離婚指輪の需要は増えているそうだ。多くのジュエラーがこうした要望にこたえている。結婚指輪や婚約指輪をリメイクするのは過去を引きずるようで嫌なので、心機一転、新しい離婚指輪を注文する人たちもいるらしい。結婚指輪をしていた指に何もはめていないと気分的に落ち着かないので、自分で選び、自分で購入した、まったく新しい指輪をはめるのは、ある意味、気持ちの区切りにもなるだろう。そういう意味では、薬指でなく、中指にする指輪を注文する人もいるようだ。いまは高価な宝石を身につけるセレブ界隈での流行のようだが、そのうち裾野の消費者まで広がっていくのは時間の問題ではないだろうか。
しかし、この記事を読みながら、私が思い出したのはジュエリーとはまったく関係のないことだった。日本で2月末から公開中の映画『金子文子 何が私をこうさせたか』の浜野佐知監督と書店イベントで対談したとき、監督が語っていた言葉が思い出されたのだ。
『金子文子 何が私をこうさせたか』は、100年前に23歳で獄死した日本のアナーキスト、金子文子の生涯を描いた映画だ。2019年に日本でも公開された韓国映画『金子文子と朴烈(パクヨル)』で文子を演じたチェ・ヒソが映画祭で賞を総なめにしたことは、韓国映画ファンの人ならご存じかもしれない。この映画のタイトルは韓国では『朴烈』だった(日本公開時に「金子文子」がタイトルに加えられた)。同作での金子文子は、革命家の男性主人公のサイドキックという描かれ方で、朴烈を愛し、ひたすら支えるチャーミングな女性というキャラ設定になっていた。しかし、浜野監督の映画の中の金子文子は、それとはまるで違った。そもそも、朴烈がほとんど登場しないのである。それというのも、二人が大逆罪の裁判で有罪判決を受け、別々の刑務所に送られるところから始まるのだ。
実は、金子文子に関しては私もこれまで何冊か本で書いたことがある。彼女の波乱万丈な人生で、最も動きがないのが、獄中で過ごした最期の日々だ。なにしろ、刑務所にいるのだから、移動もできないし、劇的なことも起こり得ない。しかし、浜野監督は刑務所での日々を映画の題材に選んだ。どうしてなのだろうと思って尋ねてみると、監督は、とにかく朴烈と文子を引き離したかったのだと答えたのだった。
これには「なるほど」と膝を打った。だいたい、文子は「わたしはわたし自身を生きる」という有名な言葉を残したぐらい、他の誰でもない自分であること、自分自身の生を生きることにこだわった女性だ。それなのに、なぜか朴烈の添え物みたいに、「命がけで彼を愛した女性」「恋人のために自分を犠牲にした」みたいなイメージがついていた。彼女本人が、鶴見俊輔のような哲学者にインスピレーションを与えた思想家だったことはほとんど語られてこなかったのである。
確かに文子は朴烈を愛していただろう。けれども、獄中で「朴と私は一緒にいた。だが、それは二人の生活ではない。一人と一人の生活である。どんな個性にも他の個性を吸収してしまう権利はない」「私が自分の道を、誰にも邪魔されず、まっすぐに歩みつづけるためには、私はひとりになるべきだった」とも書き残しているのだ。そうした彼女の「個人」としての軌跡を浜野監督は映像にしたかったのである。
離婚指輪を作る女性たちも、配偶者となった人を愛して共に暮らし、「私はひとりになるべき」と決断しての結果だろう。だが、彼女たちは婚約指輪も結婚指輪もしていなかった頃に戻りたいと思っているわけではないから、指輪をリメイクしたり、新しい指輪を作ったりして指にはめるのだ。
ところで、誰かのサイドキックとして歴史に存在してきた女性の映画といえば、今年はクロエ・ジャオ監督の『ハムネット』も話題だ。こちらは、ウィリアム・シェイクスピアの妻、アグネス・ハサウェイ(アン・ハサウェイの名でも知られている)を主人公にし、かの有名な『ハムレット』が生まれたのは、夫妻のハムネットという息子の死が関係しているのではないかという説に基づいたストーリーだ。喪失の体験がテーマになっているとはいえ、この映画もまた、「シェイクスピアの妻」としてしか知られてこなかった人物が、実はどれだけ強く、自由で激しい一面を持ち、自然と一体化できる女性だったかという「個人」性を描いている。
『金子文子 何が私をこうさせたか』も『ハムネット』も女性監督の作品であることは偶然ではない。以前、この連載で、歴史から消された女性を復活させるため、地域に貢献した女性たちを発掘し、ウィキペディアに投稿している人々がいると書いたことがある。著名な男性のパートナーとしてのみ知られ、本人がどんな人物だったかは取り上げられてこなかった女性たちを復活させることも、こうした動きとリンクしている。誰かを愛し支えたことは真実でも、彼女たちはそれだけの存在だったわけではない。誰かの陰に隠れて生きた女性ではなかったのに、後の世の人々の手でそう描かれるようになったことに、本人たちも不本意なはずである。その無念を晴らすシスターフッドをこの2作からは感じた。金子文子を演じた菜葉菜さんと、アグネスを演じたジェシー・バックリーの演技にも、そのシスターフッドが顕現したような凄みが宿っている。
ライター・コラムニスト。英国在住。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)、『私労働小説 負債の重力にあらがって』(角川書店)など著書多数。本連載は『SISTER“FOOT”EMPATHY』(集英社)に収録。