2021.04.25

富田望生、あの日を忘れない

東日本大震災から10年が過ぎー

2011年3月11日、午後2時46分。人々の意識や人生までを変えた未曾有の災害から10年の今年。当時11歳だった俳優・富田望生さんが、今、改めて故郷の福島に想いを寄せる

今になってわかる母の行動力に感謝

あの日のあの時刻、富田望生さんは通っていた福島県いわき市内の小学校にいた。教室では学年末のお楽しみ会の準備中。カタカタと校舎が揺れ始めたのは、集団下校で一緒に帰宅する男子児童を待ちながら、教室の外の廊下で仲よしの友達とおしゃべりをしていたときだった。

「数日前にもやや大きめの地震があったので、揺れ始めは『あれ、また地震?』という感覚でした。でもだんだんと揺れが激しくなってきたので、友達と一緒に教室の机の下に隠れたんです。地震でドアが変形すると外に出られなくなると授業で習ったこともあり、男の子たちがドアを開けていてくれたのですが、挟まれてしまいそうになるぐらいの揺れが長く続いて。そのうち壁にもヒビが入り、揺れがおさまった頃には、教室にあったストーブの排煙パイプのすべてが床に転げ落ちてしまっていました」

富田さんは当時小学5年生。発災時、母親は市内のホテルに勤務中で、自宅には同居していた曽祖母がひとりで彼女の下校を待っていた。自宅は高台にあり津波の被害はなかったものの、経験したことのないほど大きな揺れに動揺した富田さんは、曽祖母が倒れた建物や家具の下敷きになってないかと心配になり、その場で泣き出してしまったという。

「自宅から母の職場までは、車で20分ぐらいの距離でした。支配人という立場上、ホテルのお客さんを置いて私を迎えに来られるはずがないことは知っていたので、私がひいおばあちゃんのところに早く行かなきゃと、焦る気持ちと怖さで涙が出てきたんです。そうしたら担任の先生が真剣な顔つきで『メソメソしていてどうするの。ひいおばあちゃんはあなたが守らなきゃダメでしょ』と叱ってくれて。『そうだ、私が守らなきゃ』と急いで帰宅すると、庭に椅子が出してあり、ひいおばあちゃんが飼っていた犬のリードを持ちながら『おかえり』と座っていました。聞けば、近所の方々が揺れの直後に自宅に来てくださって、ガス栓を閉め、余震が来ても大丈夫なようにしてくれていたんです。その夜はお向かいの家にふたりでおじゃまさせてもらい、停電していたので、ろうそくの火を灯し、余震が来たら消し、を繰り返していました。母が帰宅したのは翌朝になってからでした」

強い余震がたびたび発生し、停電で部屋は真っ暗。曽祖母と一緒とはいえ、母のいない夜はさぞかし心細かったことだろう。翌朝、母が迎えに来てからは、曽祖母を祖母の家に預け、富田さんは母親の職場であるホテルのロビーへ。電気がついて暖房もあり、親が近くにいることで安堵したのもつかの間。富田さんはじきに、周囲の大人たちがざわざわと慌て始めていることに気づく。いわき市から北に約50㎞ほど離れた福島第一原子力発電所で、爆発が起きたと報道されたのはちょうどその頃だった。

「小学生だった私には、何が起きたのかはまったくわかりませんでしたけれど、とにかく大変なことが起きたということは周りの大人の様子から察しがつきました。余計なことを言って大人を混乱させてはいけないと静かにしていましたが、母はかなり動揺していたと思います。ホテルのお客さん全員が自宅に着いたことを確認し、家族で横浜の系列ホテルに自主避難することになったのは震災から1週間後です。車で東京方面へと向かう途中、ガソリンスタンドに並んで給油待ちをしたり、知り合いにガソリンを分けてもらいながら、移動に3日間かかりました」

子ども心に大変なことになったと理解はしつつも、一番の心配事は「果たして福島の家に帰れるんだろうか」ということ。故郷から遠く離れることになった11歳の少女の不安ととまどいは、やりきれない怒りとなり、出発当日に初めて母親にぶつけられた。

「ずっと黙っていたのですが、震災当夜の心もとない気持ちが消えなくて、いざ出発するときに『帰ってこれないんだったら行かない』と怒鳴ってしまったんです。そのときに初めて母から『言うことを聞きなさい!』と強く叱られました。今思えば、当時の母の気持ちはすごくよくわかります。原発からやや離れていたとはいえ、情報は錯綜し混乱のまっただ中。子どもを守るため、母なりに最大限にできることをしてくれたんだなと……」

小学1年生の夏休み、祖父母の家で撮った貴重な一枚
初めてのピアノの発表会。いわき市で習っていたピアノの先生が大好きだった

故郷に思いを馳せ、母に支えられ飛び込んだ新しい世界

避難後は母の転勤に伴い東京で居を構え、転校することに。しかし、自主避難で地元を離れるのはクラスで富田さんただひとり。友達と離れる悲しさに加え、好きで習っていたピアノとの別れも寂しさを増大させた。東京で続けたくとも相性のいい先生に巡り合えず、ならいっそ別のものをと、フラメンコ教室や学習塾に通えど身が入らない。そしてある日、ふと見た俳優養成所の募集広告に彼女は一筋の光を見つけることとなる。

「私自身、教えられたものをそのままやるよりも、渡された課題を自分なりに挑戦してみるのが好きなタイプ。親が働いていてテレビっ子だったし、俳優になれば福島の友達や先生も見て驚いてくれるんじゃないかと思って、養成所に飛び込みました。母が私のやりたいことを否定せず、新しい挑戦へ背中を押し続けてくれたのも大きな励みになりました」

お芝居に打ち込むことで、新天地での生活や精神面も徐々に充実。2015年には『ソロモンの偽証』で映画初出演を果たし、15㎏も増量した役づくりも大いに評価された。話題の作品に次々と出演し、キャリアを順調に積み上げている富田さんには今年、発災10年を迎える関連番組のナレーションや、ドラマへの出演オファーが数多く舞い込んだ。

「仕事を通して震災について伝えるということは、当時の宙ぶらりんで不安な気持ちばかりだった自分からしたら、とてもありがたくてうれしいことです。ふだんは作品の役どころと自分を重ねることはないのですが『ペペロンチーノ』(NHK仙台)というドラマの役は、自分の境遇と似ている部分があったので、気持ちを入れたほうが地域の方に寄り添えることになると思ったりもして。ナレーションでは、観ている方に震災の状況をしっかりと届けなきゃという使命感で挑みました。ただ、俳優としてイントネーションはしっかりと直したはずなんですが、地元の方の会話を聴くと、つい福島の言葉が出てしまって。気持ちが入ってくると無意識に出ちゃうんでしょうね(笑)」

10年後、強い自分でありたい

震災によって生まれ育った故郷を離れざるを得なかった富田さんにとって、人生の半分を過ごした福島は、何よりも大切にしたい思い出がいっぱい詰まった場所だ。震災がなければ、今頃は東京の音楽学校に通い、ピアノの先生を目指していただろうとも想像するという。

「とはいえ、どちらにしろ俳優になっていたかなと思う自分もいます。これまでの10年で、私の場合は環境も進む道も大きく変わりました。10年後の30歳には母のような懐の深いお母さんになっていたいです。母は強いですからね、本当に」

富田さんが未来に思い描く新しい10年は、今、始まったばかりだ。

富田望生

とみた みう●2000年、福島県生まれ。’15年より俳優として映画、ドラマ、舞台などに多数出演。4月スタートの連続ドラマ「ネメシス」(日本テレビ系)に出演。インスタグラム(@tomitamiu)も随時更新中。

SOURCE:SPUR 2021年5月号「富田望生、あの日を忘れない」
photography: Kenshu Shintsubo  styling: Shuhei Sakaue hair & make-up: Naoyuki Ohgimoto text: Satoko Hatakeyama

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