INTERVIEW WITH 杏さん
教えてください、手で書く気持ちと書き残す日々のこと
杏さんがこのたびSPURのために書き下ろしてくれた一枚の「絵日記」もまた、随分とアナログな方法で届けられた。まず、杏さんとスタッフがパリの街で待ち合わせをして原稿を受け取り、丁寧に梱包して航空便の窓口で発送。3日後に日本に到着し、配達やアルバイトの方の手を渡って、撮影スタジオへ。スキャンデータを指先ひとつでメールする一瞬の出来事とは訳が違う。書類封筒の中には「はる〴〵海をこえて 無事届きますように!」と愛らしい一筆箋にしたためて添えられていた。
パリで暮らす杏さんが大切にする「手書き」の肉感とその時間
──この原稿は、どこでどんなふうに書いてくださったのですか?
「自宅のキッチンで書きました。まずは真っ白いコピー紙に、何を書こうかな、みたいな感じで。犬の話を書こうかとか、旅のことも書いてもいいなとか考えながら、何パターンかペンで下書きをしてみました。文房具は家のそこここにあるので……今回はそうだ、画用紙に万年筆で書いたんだ。細かな字は同じ色のインクのボールペンで、色は色鉛筆で塗りました」
──お子さんと綴る旅日記のエピソードが素敵です。それぞれどんな一冊になりましたか?
「私は、何時の電車に乗ったとか、ホテルはどこに泊まって、どんなお店におじゃましたとか。子たちが大人になって、同じ道のりを再現しようと思えばできる。そんな情報を書き残しつつ。あとは、そのときの子どもの様子を書いたりしました。子どもにはノートを持ってきてね、というお願いは一切していないんですけど、やっぱりみんな持ってきていて、なにかを懸命に残そうとしていました。ちょっと特別感があってうれしいのだろうな、と感じましたね。チケットの半券を貼りつけたり、日本に帰ってきたら写真をシールプリントして、コラージュしてもいいかなと思っています」
──今は簡単に写真やムービーが撮れて、SNSに瞬時に残せる時代。けれど紙のノートなら、世界に一つだけの旅の記録が残ります。
「そうですね。やっぱり埋もれないですむところが、アナログな手書きの大きな利点だなと思っています。実はうちの子どもたちはまだ、デジタルデバイスをほとんど持っていないんです。キッズ用の電子書籍リーダーはあるけれど本しか読めなくて、動画も写真も見られないし、メールの送受信もできない。彼らには書くことしか手段がないという事情もあります」
──なるほど、家族のコミュニケーションツールは「手書き」がメインなんですね。
「はい。今朝一番にしたのは、壁にかかった家族共通のカレンダーに予定を書き込むこと。それから仕事で家を空けるときは子どもたち宛てにカードを書きます。最初は3人それぞれに、1日3枚ずつ書き残していたんですけれど、たとえば10日間だと30枚、20日間だと60枚必要になって書くことも尽きてしまうので(笑)。最近は1日1枚、封筒の中からくじ引きみたいに取り出して読んでもらっています。
子どもたちはフランスの学校に通い、日本語教育を受けてないので、私の書くものが数少ない日本語のソース。わからない漢字も多いと思うのですが、やっぱり自分自身に宛てたメッセージだとなんとかして読もうとするんですよね。それに子ども同士も、喧嘩したときに怒っていることを紙に書いています。思いの丈を怒りにまかせて書いていたりして。それを見ると、日本語で気持ちを書いて整理しているのかな、と思います。きれいな字じゃなくて、感情がこもっているのも可愛くて、全部とっておきたくなりますね。
──杏さん自身にも、今まで心に残る「書き文字」の思い出があるでしょうか。
「亡くなった祖父と子どもの頃交わした手紙は、箱に入れて大切にしています。おじいちゃんの字なので、達筆でよく読めなかったんですよね。けれど今になってだんだんと読めるようになりました。旅先の絵はがきや、色褪せてきた紙やインクを見ると、タイムスリップするような気持ちになります。新たに手に入れられるものではない、かけがえのない思い出です」
──そうした記憶を重ねて、日常の何げない手書きのやりとりを大切にされているのですね。
「お礼状など、あまり書き込みすぎずに感謝の気持ちを伝えたいときは、必ず手書きで。定型文的な内容になるものこそ筆の走りや、万年筆の書き終わりのインクの溜まりなどにも体温を感じられるというか。書いたそのときの雰囲気や空気を伝える肉感がある気がします」
──杏さんの手書きのメッセージには、まさにそのぬくもりがこもっていました。
「手紙だけでなく、手書きのものには、相手や対象について書く時間の分だけ見る、考えるという手間がかかるんですよね。たとえば写経をしたことがあるのですが、普段書かない字を何度も書くことによって『この漢字と仲よくなれてきたかも』って感じたり、イラストでも電子レンジをスケッチして、『こんなに電子レンジのこと見たことなかったな』って思ったり。手で書くことには、日常で無意識に使っているものとの新たな関係性の結び直しみたいな側面があるのかもしれません。そういう意味では、なんてことのないものを手で書くような心の余裕は、普段から持っていたいなと思います」