ケアとシスターフッドの倫理【ブレイディみかこのSISTER "FOOT" EMPATHY】

"他者の靴を履く足"※を鍛えることこそ、自分の人生を自由に歩む原動力となる! 真面目な日本女性に贈る、新感覚シスター「フット」談

※ ブレイディさんの息子が、他者の感情や経験などを理解する能力である"エンパシー"のことを、英国の定型表現から「自分で誰かの靴を履いてみること」と表現。著作内のこのエピソードが多くの反響を呼び、社会現象となった。
※本文に、ウェブ掲載時加筆修正を加えています。

ブレイディみかこのSISTER

以前、あるシンポジウムに参加したとき、質疑応答で「ケアの倫理についてどう考えますか」と尋ねられ、答えあぐねたことがあった。

「倫理も何も、その場にいたらやるしかないですよね」という言葉が瞬時に喉から出かかっていたのだが、大学でのシンポジウムだということもあり、「あの学者がこんなこと言ってますよね」「あの本にこんなこと書かれてますよね」というような方向にもっていかなくてはならないんだろうと思って、本当に喉から出かけていた言葉が言えなかったのだ。

ケアの現場、という表現をメディアや学術書は使いがちだ。しかし、それは何も病院とか介護施設とか保育園とかいう特別な場所だけではない。特にケアを仕事にしていない人の日常の中にも、いきなりその現場は立ち現れる。駅の階段から派手に転げ落ちた人に「大丈夫ですか」と声をかけて立ち上がる手助けをしたり、道端で倒れて泣いている子どもを見たら思わず走り寄って助けたくなったりするのは、その場にいたらやるしかないからだ。この「やるしかない」は、誰かから強制された規則や義務ではない。だから、「やりたくなる」のほうが正確な表現だ。衝動とも欲望とも呼びたくなるようなその感覚は、人間の生存本能と直結している。自分が生き延びるだけでなく、他者も生き延びさせたい本能が人間には備わっているからだ。アナキズムという思想では、これを「相互扶助」と呼び、生物の種(人類もそう)は殺し合うだけならすぐに滅びてしまうが、助け合ってサバイバルする本能が備わっているから今日まで生き延びることができた、と説明される。

ちなみに、家庭もケアの現場だ。しかしここでは相互扶助の本能がまっすぐに発揮しづらくなることがある。少子高齢化は日本だけの話だけでなく、家庭内でのケアが英国でもよく話題にあがるようになってきたが「自分をケアしてくれなかった高齢の親の介護という不可能な仕事:『過去のつらい出来事が何度も蘇る』」という見出しの記事が英紙『ガーディアン』にも出ていた。

辛辣な言葉や誹謗、中傷ばかりを親から浴びて育った女性が、がんを罹患した親の介護をしなければならなくなったときの葛藤や、親と疎遠な時期があった人など自分が親から十分にケアしてもらえなかったと感じている人が、親の介護に直面したときの複雑さを考察する記事だ。

たとえ家族と良好な関係にあったとしても、親の衰弱やニーズを受け容れるのは容易なことではない。そこに、パートナーの選択や性的指向、お金の使い方や人生における決断などを親が認めてくれない場合、介護はより困難なものになる。さらには、認知症やアルツハイマー病などが悪化する親から、生まれて初めて虐待的行為を受けてしまう人もいる。成人した子どもは、「病気なのだから」とこうした行為を受け流し、親の身の回りの世話をしなければならないと思う。しかし、高齢の親から受けた虐待的言動から、自分でも忘れていた幼少期の記憶がフラッシュバックのように蘇る人もいる。

このようなケアには自らを苛む側面がある。わたしがしっかりしなくてはという義務感はパワーを生み出すが、その義務感に押しつぶされて心身を壊してしまう人も少なくない。こうした問題は日本ではずっと前から語られてきた。が、西側社会の人口動態の帰結として、どこの国でも話題になってきたのだなとしみじみ感じる。

ところで先日、バス停でバスを待っていると、偶然にも保育士時代の同僚に会った。同僚といっても、彼女は30歳そこそこであり、わたしが一緒に働いていた頃は見習いの新人さんだった。国立病院の看護師みたいな青いチュニックを着ているので、病院に勤めているのかと尋ねると、いまは介護士の仕事をしているのだという。

泣いている子どもをなだめるのがとても苦手で、「わたしは保育士には向いてない」とぼやいていた見習い時代の彼女を思い出したが、なるほど、子どもではなく、高齢者のケアに移ったのかと思った。しかし、そちらはそちらで大変な仕事に違いない。でも、彼女はいまのほうが楽しいと言う。

「わたしはこっちのほうが向いているみたい。大人に囲まれているほうがきっと好きなんだと思う」と笑った彼女は、興味深いことを話してくれた。

「保育士の頃は、子どもたちの親からクレームばかりつけられたけど、いまは自分がケアしているお年寄りの家族から感謝ばかりされる。だから、自己肯定感が上がった」

「それはあなたがいい介護士だからでしょ」

そうわたしが言うと、彼女は照れたように、でも自信に満ちた顔で笑った。そういえば、園児の親から彼女に関するクレームがついて、キッチンでおやつ用の果物を切りながら泣いていた彼女をハグしたことがあったと思い出す。ビクビクと怯えた顔つきで働いていた彼女が、別人のように明るくたくましくなった姿は、晴れた夏の日差しも相まってまぶしいぐらいだった。

彼女のバッグに、毛糸で編んだテディベアのチャームが下がっているのを見つけた。テディベアは白いセーターを着ていて、その真ん中に彼女の名前のイニシャルが刺しゅうされている。

「可愛いチャームだね」と言うと、彼女は答えた。

「可愛いでしょ。ケアしている老婦人の娘さんが編んでくれたの。うさぎのもあるんだよ」とにっこり笑いながら、バッグの中のポーチにつけたもう一つのチャームを彼女がわたしに見せた瞬間にバスが来て、彼女はそれに乗り込み、手を振りながら職場に向かって行った。

これもシスターフッドだな、と思った。家族の中に閉じ込めると病や不幸につながることもある介護だが、外側に開くと誰かに自信や笑顔を与える事象になり得るのだ。母と娘の閉じた関係性で行われていたケアの中に、介護士という第三者が加わり、それによって緩和されたものがあるから、老婦人の娘さんはチャームを編んで彼女に渡したに違いない。

「ケアをひらく」という人文書のシリーズが日本にあったことをふと思い出した。確かに開いたほうがいいのだろう。ときに濃密で重くなりすぎるケアも、あまりに近くなりすぎる家族間のシスターフッドも。

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ライター・コラムニストブレイディみかこ

ライター・コラムニスト。英国在住。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)、『私労働小説 負債の重力にあらがって』(角川書店)など著書多数。本連載は『SISTER“FOOT”EMPATHY』(集英社)に収録。

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